育成の成果で差が出たスペインとドイツ=ユーロ2012 総括

後藤健生

安定して優れたサッカーを見せたドイツ

準決勝でイタリアに屈したものの、エジルら若手を中心に印象的なサッカーを見せたドイツ 【Getty Images】

 準決勝でイタリアに完敗を喫しはしたものの、安定して優れたサッカーを展開したのはドイツだった。「死のグループ」を3戦全勝で突破。準々決勝でギリシャに4−2と完勝したところまでは完ぺきだった。

 1990年代、ドイツのサッカーは下降線をたどっていた。90年のW杯で優勝、96年のユーロ優勝と結果だけは出していたが、試合内容は70年代の栄光の時代とは様変わり。スピードと体力が頼りの荒っぽいゲームばかりで、「強いけれどつまらない」、「あんなサッカーで勝ってうれしいのか」。相手国からは、そんな陰口をたたかれていた。

 ドイツの指導者が偉かったのは、「結果」が出ている中で「このままではいけない」ことを自覚して改革に着手したこと。各国の育成の現状を視察して大改革を実施。テクニックと個人戦術を身につけた優れた選手を育て始めたのだ。聞くところによれば、アルゼンチンにまで視察を送ったそうだ。

 その結果、サミ・ケディラ、メスト・エジル、トニ・クロースといった世代が育ってきた。
 その若い選手たちが各年代別代表で「ドイツ代表のサッカー」に親しみ、そして、フル代表入りしてからはヨアヒム・レーブ監督のもとで継続的に指導を受けてきたのだ。若い選手が多くてもチームのコンセプトはしっかりと身についていた。

 かつてのドイツが持っていた長所。たとえば労を惜しまないフリーランニングなどはしっかり継承しながら、そのベースの上に個人で打開できるテクニックやアイデアの豊富さが加わったのだ。だが、唯一90年代までの「強いドイツ」が持っていたもので継承できなかったもの。それが、「精神力」あるいは「勝負への執着心」だった。

 もっとも、これはサッカー界の問題というより、ドイツ人のメンタリティーの変化のせいではないか。地元ドイツ開催の2006年W杯でドイツは3位になったが、ドイツの観客はそれを素直に喜んでいた。昔のドイツ人だったら、3位で満足することなど決してなかったはずだ。

 90年の統一後、周辺国で「大国ドイツ復活」への警戒感が強かったこともあって、ドイツ政府はナショナリズムに抑制をかけた。そんな中で、ドイツ人はかつてのように勝負にこだわらなくなってきているのではないだろうか。

どのチームもストライカーに苦労

 スペインの場合は選手の育成という意味でも、またクラブでのコンビネーションを代表チームに生かすという意味でも、レアル・マドリーとバルセロナに依存する部分が大きい。また、準決勝でスペインに敗れたポルトガルは国外で活躍する選手が多いが、スポルティング育ちの選手を多く集めることで一体感を持たせた(監督のパウロ・ベントもスポルティング出身)。こうした国々は、クラブ主導で選手を育成しているのだ。

 それに対してドイツは協会(DFB)主体で選手育成を行い、年代別代表で磨きをかけてきた。美しくて強いドイツ代表は、いわば国を挙げての計画的な育成の成果だった。

 プレー面では、全般的に強力なストライカーが少なかった。得点王争いで6人が3得点で並んでしまったというのはそれを象徴する結果だ。

 スペインはストライカーが不在(あるいは不調)。開催国ポーランドで期待されたロベルト・レバンドフスキも結果を出せず、そのほか、どのチームもストライカーで苦労していた。ポルトガルのC・ロナウドはトップではなく、左サイドで使われていた。オランダのロビン・ファン・ペルシーなども、美しいゴールを決めはしたが単発だった。

 結局、ストライカーとしてある程度コンスタントに活躍できたのはドイツのマリオ・ゴメスやミロスラフ・クローゼくらい。そして、すでに引退も示唆しているアンドリー・シェフチェンコや、同じくベテランのズラタン・イブラヒモビッチが気を吐いた程度だった。

 そんな中でイタリアはマリオ・バロテッリをトップで辛抱強く使い、バロテッリはとうとう準決勝で結果を出したが、まだまだ荒削り。しかも、準々決勝まではどこか遠慮がちで、シュートを打たずにパスを選択する場面も目立っていた。だが、若いストライカーが少なかっただけに、21歳のバロテッリには大いに期待したい。

 また、強力ストライカーがいないため、点で合わせる高速クロスを使うチームが多かった。今後の一つのトレンドになるかもしれない。

<了>

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著者プロフィール

1952年東京生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。64年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、観戦試合数はまもなく4800。EURO(欧州選手権)は1980年イタリア大会を初めて観戦。今回で7回目。ポーランドに初めて行ったのは、74年の西ドイツW杯のとき。ソ連経由でワルシャワに立ち寄ってから西ドイツ(当時)に入った。

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