ザック監督がこだわる3−4−3に疑問=追及か封印か、割り切りも必要なのでは

元川悦子

完成形が見えてこないのは苦しい

3−4−3の習熟を重視したザッケローニ監督(奥右)。準備期間のさい配に注目が集まる 【写真は共同】

 ザックジャパンが3−4−3にトライするのは、2010年12月の堺合宿、11年3月の東日本大震災復興支援チャリティーマッチ、6月のキリンカップ2試合(ペルー戦、チェコ戦)、そして10月のベトナム戦と今回の5回目。しかし、いずれも機能したとは言い難い。初期のころから毎回のように練習を積み重ねている森脇が「僕は何度かやっているので多少はインプットできているところがあるけど、新しく入った選手がこの3日だけですべてを実践するのは難しい」と話すように、選手間の理解度にバラつきがあるのは確か。国内組より代表合宿参加日数の少ない欧州組にとっては一段とハードルが高い。細かい約束事の多い不慣れな戦術をマスターするのは、やはり簡単なことではない。

 それでもザック監督は「伝家の宝刀」と言われるこのシステムに強く固執している。「4−2−3−1と3−4−3を試合や状況によって使い分けられるようにしたい」と意欲的で、この日の練習試合後も「最終予選でもやらないとは言い切れない。可能性のあるシステムだし、完全に捨てることはない。1試合目の準備をしながら、考えていかないといけない」と語気を強めた。

 とはいえ、本当にいつ完成形になるのかが見えてこないのは苦しい。遠藤が「3−4−3を極力早く完ぺきにしたいけど時間がない。これから最終予選に入るし、3−4−3の練習ばかりしていられない」と現実的なコメントを残すのもある意味、当然のことだろう。最終予選の難しさを熟知する彼らにしてみれば、「3−4−3ばかりに気が行って、肝心の4−2−3−1がうまくいかなくなったら困る」という懸念を抱えるのも不思議ではない。現に、日本は3次予選で北朝鮮、ウズベキスタンに連敗している。最終予選までに本田圭佑の完全復活がかなうのかどうかも微妙で、頂点に立ったアジアカップの時からチーム力が上がったとも言い切れない。楽観視は許されない。

 指揮官が本気で3−4−3を完ぺきにしたいのなら、このシステムで終始一貫してやるくらいの覚悟が求められてくる。2002年W杯・日韓大会で日本代表を率いたフィリップ・トルシエ元監督も、自身のオリジナル戦術である「フラット3」の刷り込みに相当な時間を費やした。1998年秋の就任以来、ユース代表、五輪代表、A代表と年間200日近い強化日程を得られたトルシエが完成形を示したのは、00年10月のアジアカップだった。つまり、丸2年の歳月を要したのだ。当時より選手個々の能力が上がっているとはいえ、約束事にとらわれやすい日本人が1つの布陣を本当に使いこなせるようになるには、一朝一夕にはいかない。

プラスの部分を最終予選につなげられれば

 ザック監督がイタリアビッグ3(ミラン、ユベントス、インテル)の全クラブで指揮を執った名将であることは間違いない。けれども、代表監督として4年がかりでチームを作っていく経験はまったくの初めてだ。しかも、アジアは欧州とは環境が大きく異なる。そんな事情もあって、彼自身もどうすれば2つのシステムを併用させられるようになるのか、明確な答えを見いだせていないのかもしれない。

「やるべきことの優先順位をつけていかないといけない」と指揮官自身も話していたが、毎日選手と一緒にいられるクラブとは違うからこそ、3−4−3をとことん追求する、あるいは一時的に封印するといった割り切りも必要ではないだろか。ザック監督がどんな覚悟を持って今後に臨むのか。5月のアゼルバイジャン戦での合宿、そして6月の最終予選3連戦直前の準備期間のさい配を注視していきたい。

 もちろん、3−4−3を断続的に取り入れることがすべてマイナスというわけではない。今回も選手たちはいい刺激を受けている。初めて3バックの右DFにトライした今野が「真ん中から右に変わると守備の時にズレる距離感も変わるし、ビルドアップをもっとしっかりしなくちゃいけないと感じた」と話したように、必ず新たな発見はある。高橋、酒井ら新戦力は不慣れなシステムを前にしても冷静かつ柔軟な適応力を見せていたし、清武や原口ら五輪世代は理解度こそ不十分だったが、ハツラツとした動きでチームを活性化させてくれた。それも大きな収穫だった。

 こうしたプラスの部分を最終予選につなげられれば、Jリーグの過密日程が続く中、わざわざ合宿を組み込んだ意味は少なからずある。6月の3連戦で3−4−3を使いこなせるレベルまで引き上げるのは、現状を踏まえると非常に難しい。それでも、サイドで数的優位を作りながら攻めるメリットなど、3−4−3のコンセプトを活用できるようになれば、丸々3日間を割いたこともムダにはならないはずだ。

「教えられた戦術に縛られるんじゃなくて、一番いいやり方を自分たちで見つけていければいい」。中村憲剛がこう強調したように、選手自身にも今回のトレーニングを今後に生かす努力を続けていってほしい。

<了>

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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