“男の友情”によって実現する工藤公康の花道=4月7日 西武ドームで最後の勇姿

中島大輔

甲子園から始まっていた工藤と渡辺久信の関係

ビールかけで優勝を喜ぶ工藤公康氏(右)と渡辺久信(現監督)。若きエースたちは互いを意識しながら能力を開花させていった 【(C)SEIBU Lions】

 2009年に工藤公康が横浜ベイスターズ(現DeNA)から戦力外通告を受けたとき、前年から埼玉西武ライオンズを率いていた渡辺久信は、彼にしか言えないセリフで盟友を口説き落とした。
「ここまで長く現役をやってきたんだから、最後は西武がいいんじゃないですか?」

 09年の西武は中継ぎ左腕不足に苦しみ、前年の日本一から4位に転落した。渡辺にとって、当時46歳の工藤は必要な戦力だった。指揮官の熱意に心を揺さぶられ、工藤は16年ぶりの西武復帰を決める。選手として84年から94年までともに西武でプレーし、チームの黄金期を支えたふたりは、監督と選手の関係に立場を変えて10年シーズンを迎えることになった。

 工藤と渡辺の出会いは、81年夏の甲子園にさかのぼる。前橋工高の1年生エースだった渡辺がサヨナラ負けを喫した直後、名古屋電気高校(現・愛工大名電)の工藤が史上18人目のノーヒットノーランを記録した。明暗の分かれたふたりだが、当時は面識がなく、通路ですれ違ったくらいだった。

「お互いをすごく意識していた」若手時代

 それから2年後、83年ドラフト1位で西武に指名された渡辺は、2歳上の工藤を目標に掲げる。
「俺が入団した頃、工藤さんはリリーフでけっこう投げていた。当然名前も知っていたし、プロで投げている姿を映像で見たこともあった。工藤さんは1年目から1軍で投げていたので、俺もそうなりたいという目標だったね」

 入団当初、豪速球が持ち味だった渡辺は、工藤に新球を習った。
「当時、カーブと言えば工藤さんみたいな感じだった。俺はカーブを投げられなかったから、フォームの左右は違うけど、投げ方を教えてもらったんだよね」

 工藤同様、渡辺は入団1年目から1軍で起用され、15試合に登板する。86年には渡辺が16勝で最多勝を獲得すれば、工藤は11勝をマークして自身初の2ケタ勝利を達成。若いふたりがチームに勢いをつけ、西武は3年ぶりの日本一に輝いた。

 渡辺が当時を振り返る。
「西武が強くなりだした頃で、お互い主力で投げていた。刺激し合っていたね。若い時から左右のエースという感じで、お互いをすごく意識していた」

 渡辺が88、90年に最多勝に輝いた一方、工藤は87年に最高勝率と防御率のタイトルを獲得した。だが、ふたりの明暗は91年を境にくっきりと分かれる。渡辺が一度も貯金をつくれなかったのに対し、工藤は4年連続2ケタ勝利を達成し、95年にダイエー(現福岡ソフトバンク)へ移籍した。
 結局、渡辺は15年間で125勝をマークし、36歳までプレーして台湾球界で引退する。対して、工藤は日本最長記録の実働29年で224勝を飾り、1年間の浪人期間を経て、48歳で現役から退いた。

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著者プロフィール

1979年埼玉県生まれ。上智大学在学中からスポーツライター、編集者として活動。05年夏、セルティックの中村俊輔を追い掛けてスコットランドに渡り、4年間密着取材。帰国後は主に野球を取材。新著に『プロ野球 FA宣言の闇』。2013年から中南米野球の取材を行い、2017年に上梓した『中南米野球はなぜ強いのか』(ともに亜紀書房)がミズノスポーツライター賞の優秀賞。その他の著書に『野球消滅』(新潮新書)と『人を育てる名監督の教え』(双葉社)がある。

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