プルシェンコ劇場の第3幕が開演=すべての逆境を吹き飛ばした絶対王者

野口美恵

3度目“現役時代”のスタート

アマチュア資格の剥奪など、苦難の2年間を経て、競技舞台に戻ってきたプルシェンコ 【Getty Images】

「まるで本物のプルシェンコみたいだ!」

 フリーの演技直後、エフゲニー・プルシェンコ(ロシア)は、自身の演技を振り返ってこう口にした。2010年のバンクーバー五輪以来、約2年ぶりとなる公式戦。必ずしも好意的な期待ばかりではない、周囲の微妙な空気を本人が一番感じていた。だからこそ、素直に喜ぶよりも、自身を揶揄(やゆ)するようなセリフが思わず口に出たのだ。

 バンクーバー五輪では銀メダルになり、絶対王者の時代は終わったという見方もあった。さらに左ひざと背中のけがは悪化し、29歳のいま、肉体的な限界とも言われた。しかしそのすべての逆境は、プルシェンコの前では何の意味もなさなかった。ジャッジにも観客にも誰にも文句を言わせない圧巻の演技、そして自己最高点での優勝。

「僕がまだ終わっていないってことを証明したかった。そして一番の夢であるソチ五輪を目指すんだ」とプルシェンコ。3度目の“現役時代”は、華々しくまた猛々しいスタートを切った。

五輪銀メダルとアマチュア資格剥奪 苦杯をなめた2年間

 五輪連覇を狙っていた2010年のバンクーバー五輪は、彼にとって苦い思い出だ。4回転を跳ばなかったエバン・ライサチェク(アメリカ)が優勝し、4回転を跳んだ彼は銀メダル。ライサチェクとの大きな点差は、スピンやステップなど各エレメンツの出来栄え(GOE)と、「技のつなぎの要素」への評価だった。いわば「滑って跳んでの繰り返しの演技」とみなしたジャッジがいたのだ。

 メダリスト会見では「採点方法を変えるべきだ。五輪王者が4回転をやらないなんて。今の男子はダンスになってしまった」と、採点方法を批判。しかし採点を批判することは、ジャッジの人間そのものを批判することでもある。決して紳士的な言動とは受け止められなかった。そしてバンクーバー五輪直後には、自身4度目となるソチ五輪を目指すと宣言したのだ。五輪の金メダルにこだわり過ぎる、コレクターのような印象すら与えた。

 彼を取り巻く環境はさらに悪化した。バンクーバー五輪後の3〜4月に、アマチュアでありながら許可なくアイスショーに出たとして、国際スケート連盟(ISU)が試合出場資格を剥奪したのだ。ソチ五輪への道は、スタートからつまづいた。その後、アマチュア資格の回復をISUに要請。2011年6月に資格回復が決定されるまで1年間、不安な時間を過ごした。

バンクーバー五輪とは違う、ソチ五輪への入念な青写真

 一度は奪われかけたソチ五輪出場の夢。それが可能となるとプルシェンコは、バンクーバー五輪とは違い、入念な青写真を描き始めた。まず、かねてから負傷を抱えていた左ひざと背中の手術を受けた。そして、前回のように五輪シーズンに突然復帰するのではなく、段階を踏んで準備していこうと考えたのだ。彼が話した青写真は、このようなものだった。

(1)今シーズンに国際大会に1つ出て力を証明する、(2)膝の再手術をして健康面の不安をなくす、(3)来シーズンはグランプリシリーズからすべての大会に出て信用を得る、(4)2014年ソチ五輪に出て表彰台の真ん中に立ってみんなに手を振る。

「バンクーバー五輪に出たときは、周りの人々がみな『できる訳がない、3年間休んでカムバックするのは不可能だ』と言って僕を信じてくれなかった。でも僕は終わっていない。ソチ五輪では31歳になるけれどまだアスリートとして闘えるということを証明したいんだ」

 そして2012年1月23日、イギリス・シェフィールドの地で、復活への第一歩となる欧州選手権を迎えた。

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著者プロフィール

元毎日新聞記者、スポーツライター。自らのフィギュアスケート経験と審判資格をもとに、ルールや技術に正確な記事を執筆。日本オリンピック委員会広報部ライターとして、バンクーバー五輪を取材した。「Number」、「AERA」、「World Figure Skating」などに寄稿。最新著書は、“絶対王者”羽生結弦が7年にわたって築き上げてきた究極のメソッドと試行錯誤のプロセスが綴られた『羽生結弦 王者のメソッド』(文藝春秋)。

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