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ペトロビッチ激白「わたしが浦和を去った理由」
浦和レッズ前監督インタビュー
志半ばで浦和を去ったペトロビッチ前監督。「クラブ内の人間なら、今の浦和にどんな問題が起こっているかを知っているだろう」と意味深な発言も
志半ばで浦和を去ったペトロビッチ前監督。「クラブ内の人間なら、今の浦和にどんな問題が起こっているかを知っているだろう」と意味深な発言も【Getty Images】

 監督就任当時、わずか1年も経たないうちにこのようなインタビューを受けるとは、本人も予想していなかっただろう。今年1月、ペトロビッチ氏は浦和レッズの監督に就任。指揮官として古巣への凱旋(がいせん)を果たし、周囲から大きな期待を寄せられた。しかし、“ペトロ”を待っていたのは目を覆いたくなるような現実、もがき苦しむ日々だった。オランダスタイルの攻撃サッカーを掲げるもチームは機能せず、気がつけばJ2降格の危機という、ビッグクラブにあってはならない事態へと陥っていた。


 そして監督就任からわずか9カ月後、ペトロは志半ばで愛するクラブを離れることになった。試合後の記者会見で突如、今季限りでの辞任を表明すると、その数日後には最後通告を言い渡された。シーズン途中の解任、あっけない幕切れとなった。


 彼は今、何を思うのだろうか。母国に戻った今だからこそ、話せることがあるかもしれない。そんな思いから、ペトロを直撃した。彼はすべてとは言わないが、多くのことを語ってくれた。クラブ首脳陣との関係、在任期間の葛藤、愛するがゆえの助言、そして選手、スタッフ、サポーターへの感謝の気持ち……。敗戦の責任は監督にある。彼が残した成績からすれば、非難は免れまい。だが、彼の言い分にも少しは耳を傾けてはどうだろうか。できることならば、浦和を愛する多くの人々に、このインタビューを読んでほしい。ペトロの言葉がJ1残留を懸けた最後の戦いの一助になれば、それは彼にとっても本望だろう。(インタビューは11月3日)

クラブがナビスコ杯決勝を率いることを許してくれなかった

――あなたは10月15日に行われた大宮アルディージャ戦後の記者会見で、突然辞任を表明したが、その決断に至った最大の理由を教えてほしい。また、それは自分1人で決めたことなのか?


 正直に言うと、大宮戦の1カ月ぐらい前から、(契約が満了する)今年12月末でクラブを去ることを決めていた。これは誰かからアドバイスを受けたわけではなく、自分1人で悩んだ末での決断だった。チームは低迷していたので、何とか立て直そうと必死になっていたが、来季を思うと自らが手を引く意思を見せることが、クラブ首脳陣を安心させられると考えていた。彼らはわたしとは異なるやり方でチームを再建しようと思っていたようだからね。いずれにしても、監督を辞める時は、誰も傷つけずにクラブと友好的な関係を維持したまま別れることを望んでいた。


――結局、解任という形でシーズン途中で去ることが決まったが


 1つだけはっきりと言いたい。それは、クラブ側がナビスコカップ決勝を率いることを許してくれなかったということだ。このことは、わたしの人生の中で最も大きな傷となって生涯残るだろう。心臓が半分なくなったような、そんな気分にさえもなった。決勝当日、スタジアムに立てずにテレビで観戦することになるなんて想像すらもしなかった。わたしはコーチ陣と素晴らしい関係を築き上げたし、日本を代表するビッグクラブとして練習を積み、攻撃的なスタイルを標ぼうした。後に浦和の未来を担うであろう若手選手にもプレーの機会を与え、チームの底上げも図った。ただ、わたしたちの意に沿わない人間がクラブに1〜2人いたことで、残念ながらクラブから去らざるを得なくなってしまった。


 それでも、浦和の監督としてチームに再び戻ることができたのはすごく幸せに感じている。わたしはどんな国よりも日本が好きだ。世界で一番好きなチームで3年間プレーして、そして監督としてチームを率いることができたのは、素晴らしい経験だった。浦和で監督を務めることは選手時代からの夢だった。その夢は実現したが、その先に抱いてたもう1つの大きな夢は、かなうことなく終わってしまった。


――監督としての浦和での思い出は?


 浦和はこの数年間でビッグクラブに成長した。ただ、残留争いを繰り広げるようなチームであってはならない。監督としては、コーチ陣に恵まれたこと、そして若い選手の何人かが日本五輪代表に選ばれたことがうれしかった。彼らのような新時代を担う選手とともに5〜6年先に黄金時代を作り上げるつもりだった。


 クラブ内の人間なら、今の浦和にどんな問題が起こっているかを知っているだろう。ただ、真実を口に出しては言えない。それがクラブを離れた理由の1つだ。クラブ内で問題を起こして友人たちに迷惑をかけたくない。愛するクラブを1シーズンで離れるのはとても悲しかったが、チームを支えてくれた技術・医療スタッフと一緒に過ごしたことは、わたしにとってかけがいのない思い出となった。毎朝8時に練習場に赴き、若いカテゴリーの選手と話す機会もあった。皆がわれわれの働きを評価してくれた。そうでなかったら、(解任後)空港までわたしを見送りに来てくれなかっただろう。サポーター、スタッフには本当に感謝している。

今思えばエジミウソンの移籍に反対していればよかった

――今年末までの契約だったが、仮に辞意を表明しなかったら、クラブは新たに契約延長を申し出たと思うか?


 答えるのは難しい。両者ともにそう願っていたはずだとだけ言っておくよ。実際は、クラブ関係者と話し合いを続けていくうち、われわれの考え方と隔たりが生じるようになった。われわれは浦和が日本を代表する強豪クラブとしてリーグを引っ張っていけるような、常に優勝争いができるチーム作りを目指していた。わたしには明確なビジョンもあった。ただ、クラブとの意見が正反対になれば、あとは「さよなら、ありがとう」と言って別れる瞬間を待つだけだ。


 しかし、わたしは一度だってクラブを見捨てることはなかった。3月に起きた大地震と津波、そして放射能の恐怖の時でさえも、クラブを見捨てて母国へ戻ることはしなかった。6月にドイツ1部のクラブから監督のオファーがあったが、それも断った。選手時代、そして監督としてわたしを支えてくれた友人たちを裏切ることができなかったんだ。


――結局のところ、リーグ戦で低迷を続けたことが大きな問題になった。なぜうまくいかなかったのか?


 FWの問題だ。どの試合においてもわれわれのボール支配率は58〜68パーセントと高かった。また、ほとんどの試合で、あとはボールを押し込むだけというゴール決定機が4〜5回も訪れた。引き分けは11試合で、そのうち9試合は3〜4点差で勝っていてもおかしくない試合だった。決定力のあるセンターFWがいれば何も問題はなかった。もちろん、監督としての責任はある。ただ、Jリーグのほかの監督たちは「浦和は攻撃的で魅力的なサッカーをするが、得点をする選手がいない」と容易に分かっていたことは確かだろう。


――その一方で、ナビスコカップでは決勝進出を果たしたが


 強豪クラブと対戦する時はゲームをより支配する傾向があった。準々決勝のセレッソ大阪戦では中盤と両サイドの選手が機能して、高いポジションでプレーすることができた。準決勝のガンバ大阪戦では、ヨーロッパのクラブにも決して引けを取らない素晴らしいサッカーを見せた。リーグ戦では名古屋グランパス、C大阪、G大阪、鹿島アントラーズ、横浜F・マリノスといった強豪に対しても力を発揮していた。


 問題は下位チームと対戦する時だった。下位チームは守備を固める傾向がある。逆にわれわれのボール支配率は60パーセントと高くなる。必然とゴールチャンスも増える。しかし、われわれの場合は得点する選手がいなかった。若手の中には原口(元気)、柏木(陽介)、直輝(山田)、小島(秀仁)、濱田(水輝)といった成長著しい選手もいたが、彼らだけではなかなか勝てない。今思えばクラブがエジミウソンの移籍を容認した時、わたしがしっかりと反対していればよかった。ただ、財政面の話も絡んでいたから、彼らの言い分も理解できる。しかし、クラブ愛ゆえに優しい一面を見せてしまったのは、わたしのミスだったかもしれない。

ブラディミール・ノバク/Vladimir Novak

1961年2月13日ウィーン生まれ。セルビア国籍。81年からフリーのスポーツジャーナリスト(主にサッカー)として活動を始め、現在は主にヨーロッパの新聞や雑誌などで活躍中。『WORLD SOCCER』(イングランド)、『SID-Sport-Informations-Dienst』(ドイツ)、日本の『WORLD SOCCER DIGEST』など活躍の場は多岐にわたる

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