清武弘嗣、紆余曲折を経てブレークしたテクニシャン=ザックジャパン新世代の象徴として

元川悦子

A代表デビューから2試合で存在感を示した清武

北朝鮮戦でもアシストを記録した清武。国際Aマッチ2戦目ながら存在感を示した 【Getty Images】

 台風12号の影響で時折、激しい風雨に見舞われた2日夜の埼玉スタジアム。アジア王者の日本代表は2014年ワールドカップ(W杯)アジア3次予選の初戦となった北朝鮮戦で、相手の手堅い守りを前に大苦戦を強いられた。前半からテクニカルエリアに出っ放しのアルベルト・ザッケローニ監督はじっと戦況を見続けていたが、後半15分にとうとう動く。右ひざ半月板損傷で離脱した本田圭佑の代役として先発起用した柏木陽介に代え、背番号11をつける21歳のアタッカー、清武弘嗣の投入に踏み切ったのだ。

 清武を2列目右に置き、ここまで左にいた香川真司を真ん中、右にいた岡崎慎司を左に回すという布陣変更は、「攻撃のスイッチを入れる」というサインだった。清武は登場から5分も経たないうちに2度のビッグチャンスを迎える。長谷部誠の折り返しがDFに当たったこぼれ球を左足で思い切ってシュートしたのが最初。これは相手DFのブロックに遭う。直後のショートコーナーから香川が入れたクロスに反応し、右足でゴールを狙ったのが2本目。これも枠を大きく超え、惜しくも得点にはならなかった。

「点を取ることを求められていると思ったんで、しっかり決めないといけない」と、本人は試合後、A代表デビュー戦となった8月10日の韓国戦(札幌)と全く同じ反省を口にした。それでも、最後の最後で点に絡むのが、この若武者の非凡なところ。後半ロスタイム、自ら蹴ったショートコーナーで長谷部からの戻しを受けると、精度の高いクロスを冷静に送り込んだのだ。次の瞬間、ゴール前で待ち構えていた吉田麻也が打点の高いヘッドを放つ。次の瞬間、日本中が待ちに待った決勝点が生まれ、ザッケローニ監督もかつてないほど派手なガッツポーズを見せた。

 04年2月18日のW杯・ドイツ大会1次予選初戦・オマーン戦の久保竜彦、05年2月9日の同最終予選初戦・北朝鮮戦の大黒将志の劇的ロスタイム弾を彷彿(ほうふつ)とさせるような埼玉スタジアムの決勝ゴール。だが、吉田は「そんなことがあったんですか」と先人たちの歴史を全く知らなかった。アシストした清武も大黒が“大黒様”ともてはやされたころは中学3年。当時を鮮明には覚えていないようだ。ザックジャパンがブラジルへの第一歩を白星で飾る原動力となったのは、そんな新世代の若手たちだった。特に国際Aマッチ2戦目の清武は、その象徴といっていい存在である。

突出した才能、その後の伸び悩み

 テクニック、スピード、運動量の三拍子が高いレベルでそろい、今やザッケローニ監督のお気に入りとなった清武だが、昨シーズンまではごく普通の選手の1人でしかなかった。しかし、香川、家長昭博、乾貴士といったC大阪の看板アタッカーたちが次々と海外へ移籍した昨季から今季にかけて、清武は瞬く間に攻撃陣の中心へと飛躍を遂げる。10代のころは年代別の代表経験も皆無に等しかったが、関塚隆監督率いるU−22代表では大黒柱の1人に位置づけられ、6月の2次予選・クウェート戦(豊田)では先制点をマークした。
「U−22代表に選ばれるようになって、自分の目標が明確になった。予選を突破してロンドン五輪の舞台に立ちたい」とコメントするように、清武は今年のわずか半年間で、世界基準を明確にとらえられるようになった。そしてA代表でも2試合3アシストの大活躍。この勢いは本物である。

 小学校時代の彼を指導していた明治北SSCの新庄道臣総監督は「子供のころから代表になる子だと思っていました。運動量が群を抜いて多く、瞬間移動みたいにDF、MF、FWとポジションを変えながらプレーしていたし、集中力もすごかった。10代のうちに表舞台に出てきてもよかったくらいです」と、愛弟子の代表デビューが予想よりかなり遅かったことを口にする。三浦淳宏(現役引退。現在は淳寛に改名)や永井秀樹(FC琉球)、藤田優人(横浜FC)ら複数のJリーガーを育てた少年育成の名人が「弘嗣のテクニックは淳宏より上」と言い切るのだから、当時から才能は際立っていたのだろう。

 天才少年の10代は必ずしも順風満帆ではなかった。カティオーラFCに所属した中学1〜2年のころはオスグット病(ひざの成長痛)などで伸び悩み、再起をかけて中3から入り直した大分の下部組織でも、ユース時代はけがに苦しんだ。また、繊細でマイナス志向の性格も課題だった。「清武家は3兄弟。1つ下の功暉(福岡大3年)は根性のある子なのに、真ん中の弘嗣は少しナイーブだった」と新庄総監督も振り返る。周りのことを考えすぎて悩んでしまう心根の優しい次男のことを、周囲は心配しながら見守っていたようだ。

 それでも、大分ではシャムスカ、ポポヴィッチという若い力を積極的に登用する指揮官と出会い、清武は少しずつ自信をつけていった。さらに、10年のC大阪移籍が大きな転機となる。09年に大分が財政難に陥るまで、彼はずっと地元にいてトリニータでプレーしたいと考えていた。大阪行きは意に反するものだったのかもしれないが、新天地には代表レベルで活躍する同年代の香川や乾がいた。大分時代にも金崎夢生や家長ら若いタレントと一緒にプレーしていたが、単身乗り込んだ異文化の大阪で感じたものはやはり違ったはずだ。レヴィー・クルピ監督が大分時代の指揮官のように清武を積極起用してくれたこともあって、彼はグングンと成長。それが、11年の大ブレークにつながったのである。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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