アディオス! パレルモ

 ボカ・ジュニアーズのFWマルティン・パレルモが19日、アルゼンチンリーグで最後の試合を迎える。デビューして19年。これはガブリエル・バティストゥータ以後、最も強力で相当クレイジーなストライカーの物語だ。

 パレルモは1973年にラプラタで生まれた。子どものころは決して図抜けた才能を発揮していたわけではない。過去30年、有名なアルゼンチン選手でパレルモのような例はほとんどない。言ってみれば、チームキャプテンがいの一番に指名するような選手ではなく、最後に残っている子どもだった。
 しかし、何となく得点だけはしていた。方法はまちまちで、体のどこかに当たって入るたぐいのスコアラーだった。エストゥディアンテスに入団できたのも、そういうやり方でだ。92年に18歳でデビューしたが、ずっとベンチにいた。95年まで先発で起用されたことはほとんどない。

 テクニックは明白に足りなかった。まだそれほどゴールを量産できていたわけでもなく、監督やファンの信用も得られていなかった。それどころか、ファンからやじられることも毎回で、ある試合ではあまりにそれがひどかったため、監督が試合中にパレルモのポジションをファンから遠ざけたことさえあった。何を言われているのか聞こえないようにしたわけだ。エストゥディアンテスは95年、パレルモを安値でサン・マルティンに移籍させる寸前だった。しかし、貧乏クラブのサン・マルティンにとってはそれでも移籍金が高いと感じたようで、練習に参加していたパレルモを見た監督は、エストゥディアンテスへ返却を希望した。

 だが、エストゥディアンテスでダニエル・コルドバと出会い、パレルモは変ぼうする。コルドバはパレルモの特長(器用ではなかったが、得点するテクニックは持っていた)を生かす方法を伝授したという。すると、11ゴールをゲットしてリーグ2位となった。リバープレート戦では2ゴールを決め、そのころから“エル・ロコ”(奇人)と呼ばれるようになる。チリのコロコロとのスーパーカップでは、いきなり金髪に染め上げた。まるでNBAのデニス・ロッドマンのようなイメージだったが、女装して周囲をあぜんとさせたのもロッドマンと同じだった。好調に得点を重ねたパレルモはボカ・ジュニアーズへ移籍を果たす。これまで誰もバティストゥータの後継者になり得なかったクラブだ。
 ボンボネーラ(ボカの本拠地)にやって来たパレルモは、子どものころのライバルを見つけた。ギジェルモ・バロスシェロットである。ギジェは天才的なFWで、何度もパレルモに屈辱を与えた男だった。
 パレルモとギジェは全く言葉も交わさず、握手もしなかった。バンビーノ・ビエラ監督がアウエー戦で同じ部屋に宿泊させても事態は変化なし。しかし、98年にいきなり氷が溶けていった。パレルモは19試合で20ゴールを決め、その多くはギジェのアシストだった。ボカの2トップはピッチの内外で親友に変わり、パレルモはギジェの息子のゴッドファーザーにもなっている。

 99年末、パレルモはリーグ100ゴールを記録したが、けがで長期離脱を強いられた。6カ月後、カルロス・ビアンチ監督はリベルタドーレス杯のリーベル戦でパレルモをベンチ入りさせた。誰もパレルモが出てくるとは考えていなかったが、ビアンチ監督は最後の13分で投入。するとパレルモは準決勝進出を決めるゴールを決めた。数カ月後、パレルモはトヨタカップ(現クラブワールドカップ=W杯=)でレアル・マドリーから2ゴールを決め、クラブ世界一に輝く。ラツィオや複数のイングランドのクラブが興味を示したのは当然であった。

 ヨーロッパ進出とアルゼンチン代表でのプレーがほぼ同時に始まったが、どちらも十分な活躍ができたとは言えない。ビジャレアルでは素晴らしいプレーとひどい試合のどちらもあったが、それが同時に起こったのが2001年11月のレバンテ戦だった。得点した後、パレルモはゴール裏の客席の前でファンが殺到するまで叫び続け、その結果、フェンスが崩壊した。パレルモは脛骨(けいこつ)を骨折。復帰までには長い時間がかかり、ようやくフィットした時には、彼のポジションはソニー・アンデルソンに奪われていた。ベニート・フローロ監督は仕方なくパレルモをベティスへ放出。ベティスでは13試合1得点で、さらにアラベスへ投げ売りされた。活躍した試合もあったものの、アラベスを1部へ昇格させることはできなかった。

 代表チームでもいまひとつ。最低だったのが99年のコパ・アメリカ(南米選手権)のコロンビア戦で、パレルモは3回のPKをすべて外してしまった。たぶん世界記録だろう。そしてそれ以降、代表チームにはほとんどお呼びがかからなくなった。それでも09年にマラドーナが監督に就任すると約10年ぶりに代表へ復帰。W杯予選のペルー戦では試合終了間際に値千金の決勝ゴールを決め、チームを救う活躍を見せた。そしてW杯・南アフリカ大会にも出場し、第3戦のギリシャ戦でゴールをマークしている。

 ヨーロッパでの挑戦は失敗に終わったが、04年にボカに戻ると再びゴールを量産し、ボリバル戦で南米でのカップ戦通算100得点を記録。そのほかにも貴重な得点を次々に決めた。
 07年3月、もう年をとりすぎて点が取れないと批判されると、ヒムナシア戦で8分間に3ゴールをゲット。後半にも1点を加える4得点で周囲を黙らせた。ボカの記録である180得点に迫ってくると、新記録達成に備えてクラブ、街、スポンサーは大きなプロモーションを開始。プーマ社は180足の限定バージョンのスパイクを製造した。パレルモは新記録を樹立するのだが、そのうち17ゴールはライバルのリーベル戦というのは特筆される。この点で、パレルモはボカファンにとって永遠に忘れられないストライカーなのだ。

<了>
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著者プロフィール

1965年10月20日生まれ。1992年よりスポーツジャーナリズムの世界に入り、主に記者としてフランスの雑誌やインターネットサイトに寄稿している。フランスのサイト『www.sporever.fr』と『www.football365.fr』の編集長も務める。98年フランスワールドカップ中には、イスラエルのラジオ番組『ラジオ99』に携わった。イタリア・セリエA専門誌『Il Guerin Sportivo』をはじめ、海外の雑誌にも数多く寄稿。97年より『ストライカー』、『サッカーダイジェスト』、『サッカー批評』、『Number』といった日本の雑誌にも執筆している。ボクシングへの造詣も深い。携帯版スポーツナビでも連載中

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