大久保嘉人、この4年間を自信に、初めてのW杯の舞台へ

高村美砂

日本代表の座を求め続けた4年間

本来のポジションであるFWに加え、攻撃的MFもこなす大久保。紆余曲折を経てたどりついた本大会では、重要な役割を担う 【Photo:Getty Images】

 南アフリカ・ワールドカップ(W杯)メンバー発表の日まで5日を切ったころ。大久保嘉人に心境を尋ねたことがある。
「今、特別な気持ちの高ぶりはありますか?」
 間髪入れず、答えが返って来た。
「全然。何も気にしてないよ。だって、今さら考えたって無駄だし、やることはやりましたからね。それでダメだったら、そこまでの力しかなかったっていうことだから」
 開き直るでもなく、強がるでもない。きっと、心から真っ直ぐに飛び出した言葉だろう。確かに「やることはやった」――そう言いきれる4年間だった。

 彼が日本代表に復帰したのは2007年のこと。ヴィッセル神戸での1年目のシーズンだ。この前の年、スペイン・マジョルカへの移籍を経て、再びセレッソ大阪に戻った大久保だったが、同年、C大阪のJ2降格が決定したことで再び『移籍』の文字が頭に浮かぶ。彼にとっては初めての国内移籍ということもあり、決断にこそ時間を要したが、その理由は実にシンプルだった。
「マジョルカに行く時は期限付き移籍だったし、純粋に海外でチャレンジしたかったので、決断は早かった。でも、今回は完全移籍ですからね。それにJ2に落としてしまった責任も感じていたし、セレッソのことも大好きだっただけに、相当悩みました。そういう意味では、決断の重みはスペインの時とは全然違ったし、時間がかかった部分もある。ただ、日本代表にもう一度入りたいという思いが強かった。自分を高めることはきっと日本のどのクラブにいてもできるけど、日本を代表して戦えるのはたった1つのチームですからね。そこに選ばれるには日本のトップリーグ、J1の舞台でプレーし続けなければいけないと思ったし、したいと思った」

 その覚悟のままに、2007年に神戸へ移籍。彼は再び点取り屋としての才能を覚醒させる。
 スペインから戻った2006年は「1年半とはいえスペインのサッカーに慣れていた分、スピードの面で苦しんだ部分は大きい。スペインは結構ゆっくりだけど日本は速いというか忙しいというか。一度離れてまたそういうサッカーに順応するのは思った以上に難しかった」との言葉通り、スペインに渡る前のような活躍を示せないでいた。
 しかし、2007年はJリーグのスピード感を思い出したこと、開幕前のグアムキャンプでしっかりと身体を作ってシーズンを迎えたことが背中を押した。大久保は太りやすい体質ということもあって、これまでのオフは毎年のように体重が増えてしまっていたのだが、07年は「ほぼベスト」と言う73キロを保ってシーズンを迎える。結果は、リーグ戦31試合出場14ゴール。そして、オシム前日本代表監督によって日本代表に呼び戻された。しかも10月に長居スタジアムで行われた大久保にとっては日本代表復帰戦となったエジプト戦で、初ゴールとなる先制点を含む2得点の大活躍。かつて慣れ親しんだスタジアムで、堂々のパフォーマンスを見せて存在感をアピールした。

再びの海外へ、そして再びの神戸へ

 以来、日本代表の常連となった。その背景には、当然、チームでもコンスタントに結果を残し続けたことが挙げられる。神戸での2年目のシーズンとなった08年も2ケタ得点をマーク。07年もそうであったように、チーム事情もあって本来のFWのみならず中盤でプレーする機会も増えたが、新たなポジションを開拓する中で彼の得点能力はより研ぎ澄まされていった。
「プロになってずっとFWやったけど、神戸で中盤をするようになり、プレーに余裕が持てるようになった。今は昔と違い、ガンガンいくところと、ゆっくりやるところと、緩急をつけながら攻撃をできている。」

 FWとして強く欲している『ゴール』をコンスタントに量産する中、再び自信を取り戻した彼は、同時に新たな挑戦に気持ちを揺れ動かされる。2度目の海外移籍だ。南アフリカ・W杯の最終予選中の移籍とあって、周囲からは反対の声も聞かれ、彼自身も自分の決断が正しいのか、考え抜いたと聞く。だが、09年1月3日、正式にドイツ・ヴォルフスブルグへの完全移籍を発表した。
「神戸は自分のプレーの幅を広げてくれたチーム。心を許せる仲間もたくさんいる。実際この神戸での2年間がなければ「やれる」という自信もつかめなかったと思う。だからこそ神戸を優勝させたいという思いもあったけど、年齢的に考えても海外へのチャレンジはおそらくこれが最後のチャンス。しかもスペインにいった時とは違い、心身両面で充実した今、もう一度挑戦してみたかった」

 しかし、ドイツでの日々は決して順風満帆とはいかなかった。ブンデスリーガでのデビュー戦となったケルン戦こそ66分に鮮烈デビューを飾り話題を独占したが、その後は徐々に出場機会が減っていく。そんな中で再び浮上した神戸への復帰話。最初は「まだ半年では何もわからないから」と話していた大久保だったが、5月上旬に彼の獲得に尽力したマガト監督がチームを離れることが発表されると、再びJリーグ復帰への思いが強まり、6月16日には正式に神戸復帰が発表される。わずか半年でのJリーグ復帰。しかもそれにあたって発生する莫大な違約金などが取りざたされ、周囲からは厳しい声も聞かれたが、この時も決断はシンプルだった。

「海外でプレーするというだけで、試合に出られなくても得られることもあるかもしれないけど、サッカー選手は試合に出てナンボやから。周りからいろいろと言われるのは覚悟の上。とにかく僕はプロとして、FWとして、ピッチで結果を残すだけ。それしか自分を証明する方法はないし、それが大きなお金を再び動かして僕を戻してくれた神戸への恩返しだと思う」
 
 そうしてたどり着いた今の自分。この4年間は、多くの葛藤と戦いながらも、自分の気持ちに素直に耳を傾け、サッカー人生を選択して来た。彼ほどの存在になれば世間の注目を集める分、厳しい批判にさらされたこともある。そんな周囲の喧噪を全く気にしないはずはなかったが、どんな時も彼は周りに流されず、惑わされずに、『シンプル』に答えを出してきた。

ヒールはプレー上のイメージ、本当の姿は熱くて真っ直ぐな男

 ピッチでは彼が大事にする“闘う”姿勢が時に批判を浴び、“ヒール”のイメージを持たれることも多い大久保。だが、グラウンドを離れれば素直で真っ直ぐな男という印象が強い。人間味に溢れ、仲間を思いやること、周りを気遣うことも忘れない。年齢に関係なく多くの仲間に慕われるのも、その飾らない人柄ゆえだろう。
 先日のJ1リーグ戦・磐田戦の後には、4試合ぶりの勝利に思わず涙ぐむ場面も。本人によれば「こんなふうに試合で感極まったのは初めて」らしいが、ある意味では彼らしくなく、ある意味では彼らしい涙に見えた。

 そんな彼が手にした初めてのW杯の切符。小学6年生で初めてアメリカ・W杯を観戦したころは「田舎者だったし、当時はとにかく楽しいからサッカーをしていただけ。日本代表とか自分もW杯に出たいとか全く思わんかった」と言う。
 楽しいサッカーの舞台がやがてプロになり、大久保は日本を背負う存在になった。そして明確に今、目の前に迫っているW杯。もちろん、気持ちが高ぶらないはずはない。

<了>
大久保嘉人
Yoshito OKUBO [ヴィッセル神戸] FW
1982年6月9日 170cm/76kg
・前所属チーム:国見高−セレッソ大阪−マジョルカ(スペイン)−セレッソ大阪−ヴィッセル神戸−ヴォルフスブルグ(ドイツ)
・Jリーグ初出場:2001/03/17 2001Jリーグ ディビジョン1 1stステージ 第2節 C大阪(vs浦和@駒場)
・Jリーグ初得点:2001/04/14 2001Jリーグ ディビジョン1 1stステージ 第5節 C大阪(vs磐田@磐田)

提供:ISM
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著者プロフィール

関西一円の『サッカー』を応援しようとJリーグ発足にあわせて発刊された、関西サッカー応援誌『GAM』『KAPPOS』の発行・編集に携わった後、同雑誌の休刊に伴い、1998年からフリーライターに。現在はガンバ大阪、ヴィッセル神戸を中心に取材を展開。イヤーブックやマッチデーブログラムなどクラブのオフィシャル媒体を中心に執筆活動を行なう。選手やスタッフなど『人』にスポットをあてた記事がほとんど。『サッカーダイジェスト』での宇佐美貴史のコラム連載は10年に及び、150回を超えた。兵庫県西宮市生まれ、大阪育ち。現在は神戸在住。

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