移籍市場から見た2010年以後のJリーグ(前編)=(株)ジェブエンターテイメント代表 田邊伸明氏に聞く

宇都宮徹壱

移籍ルールの変更について語る田邊氏 【宇都宮徹壱】

 開幕直前となった2010年のJリーグ。今季は「移籍ルールの変更」後の最初のシーズンとしても密かに注目を集めている。昨年10月、JFA(日本サッカー協会)の理事会において、選手の移籍に関する規約規定に修正が加えられることとなった。大きな変更点は2つ。契約満了となる選手は、移籍金ゼロで自由にほかのクラブへ移籍できるようになること。そして契約満了の6カ月前から、どのクラブとも移籍交渉できる権利が認められたこと。これまで独自ルールをかたくなに守ってきたJリーグが、ついに国際基準を取り入れることとなったのである。

 では、今回の移籍ルールの変更は、2010年以降のJリーグにどのような変化をもたらすことになるのだろうか。この疑問に答えてくれたのが、株式会社ジェブエンターテイメント代表の田邊伸明氏である。ジェブエンターテイメントは、中澤佑二、稲本潤一、平山相太といった日本代表をはじめ、数多くのJリーガーと契約を結んでおり、その代表を務める田邊氏は業界屈指のエージェントである。今回のインタビューに際し、田邊氏にお願いしたのは(1)ルールの変更によってJリーグにどんな影響が起こり得るのか(2)選手の海外移籍はどう変わっていくのか(3)エージェント業務から今の日本サッカー界はどう見えるのか――大きくこの3点である。多忙の折にもかかわらず、田邊氏はこちらの質問に対して、実に誠実かつ丁寧に答えてくれた。今回は(1)のJリーグの影響について、選手、クラブ、サッカー界、それぞれの視点から語っていただく(取材日:2月16日 インタビュアー:宇都宮徹壱)

突然の話だった移籍ルールの変更

――今日はお忙しいところ、ありがとうございます。田邊さんのお仕事は、選手がオフのこの時期が繁忙期だと思うのですが、昨年と比べて忙しさが抜ける時期は違いましたか?

 今年はあまり変わりませんでしたね。それを説明するために、いきなり移籍ルール変更の話をします(笑)。今までは契約満了の2カ月前までにクラブは選手に対して契約をするかしないかの意思表示をしなければいけなかった。つまり1月31日に契約が切れる場合は11月の30日だったんです。なので11月30日になると、来シーズンの年俸だったり、契約があるかどうかが分かって、そこから12月いっぱいまでは現所属クラブとの契約になる。そこで決裂した場合は、1月に入って各クラブとの契約交渉。もしくは合意しているんだけど、詳細のつめを1月中にやるという感じだったんです。ところが昨年6月の理事会で、JFAの規定が変わり、10月の理事会で移籍に関する規約規定に修正が加えられたことによって、契約満了6カ月前から他クラブとの契約ができるようになったんです。

――1月末日の6カ月前というと、昨年の8月から、ということになりますね

 そうなんですが、すでにその時点で過ぎてしまっている。ですから去年は経過措置として、実質10月1日から契約交渉が始まるということになったんです。なのでいつもは12月1日から始まるものが、10月1日から始まる。それは他クラブとも、現クラブとも、すべてひっくるめてです。つまり「優先交渉期間」という日本独自のローカルルールがなくなったわけで、本質的に契約交渉というのは、いつやってもいい。特に現所属クラブは、いつやってもいいわけなんだけど「ほかのクラブと話すのであれば、契約終了の6カ月前からしかダメ」ということで、ダメだというところが決まっている。ある意味、非常に合理的なルールだったわけです。

――とはいえ、あまりにも急な話だったわけですから、クラブ側にしてみれば対応が大変だったのでは?

 移籍ルールは変更になった。それでもクラブは10月1日を目指して予算を組むことをやっていませんでしたから。つまり来年の入場料収入やスポンサー収入の見込みを立てて、それをもとに人件費の枠を決めて提示するという業務が間に合わない。クラブにしてみても、もちろん僕らにしてみても突然の話でした。だから10月からといっても「年俸を提示するのはもうちょっとあとね」というような感じでしたね。もっとも、クラブ自体が予算を立てて人件費のバジェットを決めるサイクルが早くならなければ、このルールに沿っていかないわけですよ。

柏木の代理人はFIFAルールを前提に動いていた?

――選手にとっても急な話だったと思いますが、どんな影響がありましたか?

 当社で契約している選手の場合、08年の12月と09年の1月の契約において、多くの選手を複数年契約にしたんです。というのもクラブ側は、10年シーズンではないだろうけれど、11年シーズンのスタートには変わるだろう、というもくろみがあったからです。でも何人かの選手、当社の選手に限った話ではないですが、突然のルールによって大きな決断を迫られることになった。それが、例えば金崎(夢生。大分→名古屋)だったり、柏木(陽介。広島→浦和)だったり。将来、そのクラブなり日本のフットボールなりを背負って立つであろう何人かが、突然フリーになってしまうという事態になったんですね。

――柏木の場合ははたから見ていて、代理人がかなり積極的に動いていた印象がありましたが、実際にはどうだったんでしょう

 実際には去年の2月か3月くらいに「そうなるんじゃないか」といううわさはあったんです。で、そうなった瞬間に、たぶん柏木サイドは動いたんだと思います。さっきも言ったように、FIFA(国際サッカー連盟)ルールで言えば6カ月前ですから、6カ月前から動いた、つまり8月1日から動いたと考えるのが正しいと思います。ただ、ここから難しい問題があって、このルールはFIFAが加盟国に対して国際移籍はもちろん、国内移籍についても「こうしなさい」とずっと前から言っていたことを日本側は放置していた。だから「8月1日からほかのクラブと交渉してもいいんだ」と考えるエージェントがいてもおかしくない。特に柏木のエージェントは、日本ではなく英国でライセンスを取った人なので「FIFAルールがベースでしょ」という考えだったのかもしれないですね。

――なるほど、発想の転換というか、どちらに根拠を求めるか、という話ですよね。その点について、田邊さんご自身の見解は?

 当社もどっちかというと、そういう考えだったんです。だから05年に中田浩二(鹿島)がフリートランスファーでマルセイユに移籍したときに「それがFIFAルールでしょう。何がいけないの?」と言ったら非難されたわけです。ただ、そのときはウチの会社としての強い信念があって、日本では選手の移籍の権利が奪われている、だから(契約)満了だからフリーで行かせるんだと。もちろん、いろんなことを言われるだろうけれど、ちゃんとルールを知っている人だったら、これが正しいということは分かるし、複数年契約を結んでいなかった時点で、こうなることはクラブとして分かって当たり前でしょ、というのはありました。

移籍ルール変更の先駆けとなった、中田浩二のケース

中田浩二は2005年にトルシエ監督(左)率いるマルセイユに移籍した 【Photo:Mounic/PanoramiC/AFLO】

――中田のケースは最初の事例だったんでしょうか?

 厳密にいえば、高原(直泰。現浦和)が磐田からハンブルガーSVに行った時には契約満了だったんです。しかしながらHSVは日本の慣習を考慮して、いくらかのお金を払っています。だから当社は、中田のときも同じことを試みたんです。マルセイユに対して「恥ずかしながら日本は、ボスマン判決以前のルールが残っているので、そのへんの事情も考慮してお金を一部払ってくれないか」と。中田が自分の給料の一部を削減して、それを当時でいう移籍金、今でいう違約金に充てようとしたんです。それでも、鹿島側からは拒絶されてしまったわけです。

――「そんなはした金はいらん」という感じだったわけですね? それでも中田は、やっぱり向こうに行きたかったと

 ずっと以前から、当社と契約した01年から海外に行きたいというのが彼の目標でした。それまでいろんなトライをしてきたけど、なかなかうまくいかなかった。で、マルセイユからオファーがあったときには「今、流れが来ているから、これに乗らないと」という思いが強く働いたんです。監督はトルシエで、中田のことをよく知っている。そして契約満了というタイミング。しかも鹿島も練習には行かせてくれたんです。それで行って、本人もやりたいとなったときに、突然クラブ側からブレーキがかかってしまって……。

――それでも最終的に移籍を実現させたわけですが、その間にどんなことがあったんでしょうか?

 実は当時の川淵(三郎)キャプテンのところに行ったんです。中田の件で田邊がやっていることはおかしいと言われているんですけど、これはあくまで国内ルールであって、国際移籍はFIFAのルールを尊重すべきではないですか、と。そうしたら川淵さんは「あなたは選手のエージェントなのだから、プレーヤーズファーストで頑張りなさい」とおっしゃってくれました。当時から「プレーヤーズファースト」という言葉はあったんですけど、僕が初めてその言葉を意識したのが、その時だったんです。ただし「やれ」とも「やるな」とも言われなかった。それでも「プレーヤーズファーストで頑張りなさい」と言われたから、背中を押されているんだなと思いましたね。

――たった5年前の話ですが、フリートランスファーが当たり前になった今から考えると、ずい分と隔世の感がありますね

 実際、本田圭佑とか長谷部(誠)とか水野(晃樹)とか、みんなフリーで行っているけれど、誰にも何も言われなかった。だから、今なら「時代を先取りしていた」と言えるんですけどね(苦笑)。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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