ワールドカップで遠藤に何ができるのか=世界を待ち望む司令塔の覚悟

元川悦子

韓国戦後に強い口調で自らを鼓舞

遠藤(中央)は韓国戦でPKを決め先制点を挙げた。しかし逆転負けを許し、試合後は厳しい表情で反省を口にした 【Photo:YUTAKA/アフロスポーツ】

「言われたことをその通りにやるっていう日本人の悪い癖が出ている。もっと遊び心を持ってやらないと創造性が出てこない。試合中にポジションを変えるのもそう。実際にやっているのは自分たちなんだから、リズムが取れなければ監督に関係なく修正しないと」
 遠藤保仁は東アジア選手権が開幕してからずっとこう言い続けてきた。岡田武史監督のコンセプトに縛られがちな日本代表を何とか変え、プラスの方向へ持っていきたい。中村俊輔不在のチームにあって、攻撃陣のカギを握る彼は、最終戦の韓国戦を大きな転機にしたいと考えていたはずだ……。

 出だしは悪くなかった。ユース時代からお互いを知り尽くしている稲本潤一がアンカーの位置に下がり、遠藤が前へ行く縦関係のボランチは機能しているかに見えた。華々しい活躍をした元日の天皇杯決勝から1カ月半。1月25日に鹿児島・指宿合宿で始動したころは体が重く、本調子には程遠かったが、試合を重ねるごとに運動量も多くなり、ワイドなパス出しも増えてきた。
 そして韓国戦、遠藤に一番のスポットが当たったのは前半23分の先制点。田中マルクス闘莉王がカン・ミンスに倒されて得たPKを自慢の「コロコロ」ではなく、ゴール左上に蹴り込んで決めたシーンだった。

 先制点を奪う幸先のいい展開だったが、大久保嘉人の負傷退場とともに勢いが止まる。「もう少したたみ掛ける攻撃が必要だったのかな。相手の出方を待ってしまった」と遠藤は悔やんだ。
 徐々に流れが韓国に傾くと、逆転を許し、闘莉王という重要なパーツを退場で失った。後半、韓国にも退場者が出て数的同数になってからは、右サイドに流れるなど攻めに出た。しかし韓国の球際の強さと寄せの厳しさに、次々とチャンスをつぶされる。遠藤は「1対1になったら相手を倒すくらいじゃないとダメ」と怒りをあらわにしたが、悪い流れを変えられない。幾度もあったリスタートもモノにできない。そして不安定な守備を突かれて3点目を献上。1−3の完敗という衝撃的な結末を目の当たりにした。
「中を閉められている時が多かったけど、そういう時こそボールをキープできないと。外に起点を作って中へとか工夫をつけたり、もっと勝負をしないといけない。シュートの精度や球際の強さを身につける必要がある」
 普段は感情の起伏が少ない彼も、この日ばかりは強い口調で自らを鼓舞していた。

「遠藤はグアルディオラ(現バルセロナ監督)だ。彼がいるだけでチームの横の連係を向上させられるし、攻守の切り替えも速くできる。その技術は素晴らしいし、アジアレベルではまったく問題ない。しかしワールドカップ(W杯)出場国のような本当にレベルの高い相手と戦ったらどうなるか分からない」
 フィリップ・トルシエ元日本代表監督が以前、彼をこう評したことがある。それを本人にぶつけると「僕はまだW杯に出たこと(W杯でプレー)がないし、言い返すことは何もないです」と淡々としていたが、本人の中では多少、自信めいたものがあったのだろう。しかし、この日韓戦を通して、世界で勝つことがいかに難しいかをあらためて実感したはずだ。
 W杯で遠藤に何ができるのか。その真価が問われるのはもうすぐそこに迫っている。

「オシムさんにはすべてを変えてもらった」

 ご存じの通り、遠藤は「黄金世代」の一員である。ユース時代から小野伸二、稲本、小笠原満男、中田浩二、本山雅志らと中盤のポジションを争い、控えに甘んじることが多かった。1999年ワールドユース(現U−20W杯)では、稲本の負傷が長引き、ボランチのレギュラーを確保。小野、小笠原とのトライアングルは見る者を魅了し、準優勝の原動力となった。だが、世界大会でプレーしたのはこれが最後だ。
 2000年のシドニー五輪は予備登録メンバーに甘んじた。トルシエ監督は彼らをチームに帯同させたため、遠藤は決して立つチャンスのないスタジアムのピッチを見つめながら黙々と練習をするしかなかった。「あの時ほどつらかったことはない」と10年が経った今も屈辱の日々を忘れていない。

 2002年W杯・日韓大会はメンバー外。ジーコ監督時代は日本代表に定着するが、06年W杯・ドイツ大会ではフィールドプレーヤーで唯一、出場機会に恵まれなかった。それでも決してエゴを押し出さず、献身的にチームを支える姿が高く評価され、オシムジャパン以降は完全にチームの中心的存在となった。
 岡田武史監督も「昔の遠藤はパスを出して立っているだけの選手だったが、前から守備に行き、スライディングタックルもする。前へ走ってシュートにも絡む。非常にアグレッシブさが出てきた」と評する。それもオシム前監督の影響が大だ。「オシムさんには僕のすべてを変えてもらった」と遠藤は言い切る。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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