デビュー20周年記念興行 折原昌夫インタビュー(前編) 天龍源一郎の背中を追い続けた20年
デビュー20周年記念興行のメーンで天龍とのタッグマッチが実現した折原が自身のプロレス人生を振り返った 【リアルジャパンプロレス】
天龍のハッスル参戦に対して「あれはオヤジじゃない」と反発した折原は、“天龍源一郎の復活”を掲げる今大会に、天龍が持つ本来のすごさを引き出してやるという強い決意で臨む。
前編では破天荒な学生時代からプロレスデビューの苦悩まで、濃密な人生を歩んできた折原の原点と、すべてを導いてくれた天龍との出会いについて聞いた。
「プロレスは馬場さん、人生は天龍さんと佐山さんに教わりました」
折原はプロレス人生20年で天龍から「男として生きていくためのすべてを教えてもらった」と語る 【リアルジャパンプロレス】
あっという間でした。でも、あれもあった、これもあったと思うと短かったとは思えなくなります。思い出すことが多過ぎますね。初代タイガーマスク(佐山サトル)に憧れてこの世界に入ったんですが、若い時というのは頭で思っていることが素直に体で表現できない。その自分の力不足に腹が立って、周りの人に迷惑をかけた。周りで働いている人のことを微塵(みじん)も感じなかった。自分勝手なヤツでした。
――叱ってくれた人はいましたか?
オヤジと言っている人、天龍源一郎さんですね。とにかく、天龍さんが右腕にはめているごっつい指輪が、僕の敵でした(笑)。その指輪のところでゴツッ! と頭を殴られる。口の利き方、態度も悪い。それに僕は感情がすぐに顔に出てしまう。ゴツッ! とやられながら我慢をすること。特に男として我慢しなければならないことを教わったなと思いますね。プロレス以外のところを教わりました。
――プロレス以外ですか
プロレスはジャイアント馬場さんから教わったと思っていますから。そのほかの人生を教わったのが天龍源一郎さん。そして、佐山サトルさんにも多くを教わりました。
――すごい3人ですね。折原選手は暴れん坊でどうしようもないと言われていましたが
当時は分からなかったですけれど、今では本当に感謝しています。たとえばタクシーの乗り方。先輩と歩く時の自分の立ち位置。人に会う時の話し方など、男として生きていくためのしつけのすべてです。だからオヤジと言っているんです。
レスリング漬けで学校暮らしの高校時代
レスリング漬けの高校時代、折原は初代タイガーに衝撃を受けてプロレスの道へ進むことを決めた 【t.SAKUMA】
――3年半も学校で暮らしていたんですか?
中学の時、柔道が強かったんです。ケンカばかりやっていて、ある日校長室に呼び出されたんです。そしたら関東学園大学付属高校(群馬県館林市)のレスリング部の米山監督(当時)がいて「明日からうちの高校にきなさい」と言われたんです。それで、中3の中頃あたりから関東学園に行っていました。中学は途中から行かなかった。
――すごい人生ですね
入学試験も受けていません。一応、作文は書きましたけれど。米山監督がレスリング部を強くしたかったので、いろいろな学校から血の気の多い野郎たちをスカウトしていたんです。だから、僕みたいな暴れん坊ばかりいっぱいいましたよ。
半年くらい経って高校の入学式になったんですけど、その時には3人しか残っていなかったです。厳しいから逃げ出しちゃったんです。朝4時くらいに起きて、10キロ走る。群馬ですから冬なんか雪も降っています。すると生徒が登校してくる前に学校内に雪かきです。そのあと練習でした。1時限〜6時限までありますけど、まったく授業に出なくても良かった。練習漬けでした。僕らの役目というのは、高校を無事卒業することじゃない。高校の名前を世の中に出すためにあったんですよ。
――規則だらけの世の中でそんなことをした監督は断然偉い
僕は中学の時に初代タイガーマスクに衝撃を受けて「プロレスラーになりたい」と公言していました。だから、米山監督は「うちで3年間頑張ったら、卒業したらプロレスラーになれるように話をつなげてやる」と言われていたんですよ。だから厳しかったけれどやり通せた。
――高校時代の厳しい経験があったから、全日本プロレスに入団できて馬場さん、天龍さん、佐山さんともめぐり合うことになったんですね
厳しかったけど、そう考えればラッキーですね。でも、勉強をしていないから携帯でメールを打っていて漢字に変換されても、その漢字が正しいかどうか分からないんですよ。だから、よく絵文字をよく使うんです。絵文字なら漢字が分からなくても気持ちが表現できるから。みんなびっくりしていますけど、単に漢字を知らないだけなんです。佐山さんにメールを出す時も絵文字を使いますから(笑)。
「天龍さんの付け人をやって僕の人生が変わった」
先輩から“かわいがり”を受けて毎日泣いていた折原だが、天龍の付け人をやるようになって人生が変わった 【t.SAKUMA】
馬場さんに叱られた思い出はひとつもないです。優しい人でしたね。僕にとって馬場さんは神様でした。全日本プロレスに入る前、僕はサンヨー電器で社会人レスリングをやっていて、優勝などの実績を引っさげて全日本プロレスの入門テストを受けたんです。
最後まで僕が残ったんですけれど、1カ月しても全日本から連絡がないので、後楽園ホール大会に行ってみたら馬場さんが売店に座っていて、ちょうど小橋さんが馬場さんのシューズのヒモを結んでいたんです。
僕は真っ直ぐに馬場さんのところに行って「いつになったら合格の返事がくるんですか。僕、受かったんですけど」と訴えたら、馬場さんはびっくりして「君は誰だ?」と。
――それはびっくりしたと思いますよ
これまでのことを説明すると「じゃあ、今日から練習生になりなさい」と即答していただいた。そして、小橋さんに「それを脱いで、こいつにやれ」と小橋さんの大きなジャージをもらいまして、大きいので腕を三重くらいに巻いて、練習生になったんです。
そういう入団の仕方だったから、先輩たちからの“かわいがり”というのもあったんですね。悔しくてね。でもグッとこらえていました。
ある日、練習が終わってちゃんこを作っている時に天龍さんが来た。天龍さんはいつも午後練習に来る時は、僕の顔を見ていたみたいなんですね。当時、僕は悔しくて泣いていたみたいなんですよ。それで「毎日泣いてるけど、どうしたんだ? 明日から俺の付け人をしろ」と言ってくれた。
――すごい展開ですね
でも、僕は天龍さんがどういうレスラーなのか、その時、ほとんど知らなかったんですよ。クルクルパーマのおっさんという感じでね。ジャイアント馬場さんの本名も「ジャイアント馬場」だと思っていたくらいでしたから。
――馬場正平という本名を知らなかったんですか
知らなかったんです。ジャンボ鶴田さん、天龍さんのことなど知るよしもない。僕の原点はタイガーマスクなので、三沢(光晴)さんだけは知っていました。だから「え、ここにもタイガーマスクがいる。あのデカいタイガーマスクは誰なんだ?」って。天龍さんはまったく知らなかった(笑)。
でも、天龍さんに言われて次の日から付け人をやるようになったら、そこから僕の人生が一瞬にして変わってしまった。全日本の人たちの僕に対する言葉使いががらりと変わってしまったんです。
※2月18日掲載予定の折原昌夫インタビュー<後編>では、折原がオヤジと慕う天龍源一郎に対する熱い心情と、デビュー20周年記念興行の見どころについて語る。
(取材・文:安田拡了/協力:リアルジャパン)
■「メビウス 第八章 折原昌夫20周年記念興行」
2月22日(月)東京・新宿FACE 開場18:00 開始19:00
<メーンイベント 折原昌夫デビュー20周年記念試合 タッグマッチ>
天龍源一郎、平井伸和
川田利明、折原昌夫
※レフェリー和田京平
<セミファイナル エル・メホールデ・マスカラード選手権試合 シングルマッチ>
[王者]エル・サムライ
[挑戦者]ザ・グレート・サスケ
<第4試合 竹迫望美引退試合 シングルマッチ>
竹迫望美
亜利弥
<第3試合 タッグマッチ>
D・東郷、ブオ・モチェロ(エイペックス・オブ・トライアングルチーム)
金村キンタロー、B・B非道(トウキョウスケベボーイ)
<第2試合 J・Rメビウスギャラ争奪バトルロイヤル>
月光vs.ヘラクレスvs.ラテテデモーvs.ドクロマンズ1号・2号・3号
※レフェリー姉崎信康
<第1試合 タッグマッチ>
NOSAWA論外(東京愚連隊)、華名
藤田ミノル、真琴
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