セルビア、名将が導いたW杯への道=“オルロビ”を復活させたアンティッチ監督

国民の信頼を取り戻すための切り札、アンティッチの就任

セルビアは10日のルーマニア戦に大勝。W杯本大会出場を決めた 【Photo:ロイター/アフロ】

「『セルビアはワールドカップ(W杯)予選最終戦を待たずに本大会出場を決めることができる!』って誰かが言ったんだ。だから、僕はこう答えた。『おいおい、冗談はやめてくれ。僕らはそんなにも強いのかい?』ってね」
 2010年W杯・南アフリカ大会欧州予選が始まる前、“オルロビ”(セルビア代表の愛称で鷲の意)の主将を務めるデヤン・スタンコビッチは半ばあきれた表情でこう語った。
 セリエA王者のインテルのMFとして輝かしい成績を収めた彼も、代表に身を移せばタイトルとは無縁の男だった。謙そんとも受け止められるスタンコビッチのコメントだが、ここ数年の代表不振から自然と発せられた、実に正直な気持ちだったのかもしれない。

 思い出してみよう。2006年W杯・ドイツ大会。“プラービ”(セルビア・モンテネグロ代表=当時=の愛称で青の意)はオランダ、アルゼンチン、コートジボワールに3連敗を喫してグループリーグ敗退。2得点10失点の成績は出場32チーム中で最下位となり、無残な姿を世界中にさらけ出した。当時監督を務めていたイリヤ・ペトコビッチは辞任。当然の成り行きだった。
 同大会後、モンテネグロと別れを告げたセルビアは初の外国人代表監督としてスペイン人のハビエル・クレメンテを招へい。国民の期待を一身に背負い2年後のユーロ(欧州選手権)2008出場権を獲得すべく予選に臨んだが、結果はグループ3位(首位はポルトガル、2位はポーランド)で敗退。またしても失意を味わうことになった。皮肉にも隣国のクロアチアやロシアなどの東欧諸国は、同大会の成功により国際舞台での地位を再び築きつつあった。

 悪夢のW杯ドイツ大会、落胆のユーロ2008予選敗退。代表監督の座もペトコビッチ、クレメンテ、そして若いミロスラフ・ジュキッチへと移ったが、何も変わらなかった。かつてはサッカー界をリードしていたセルビア(ユーゴスラビア)が、いつの間にか「追いつけ」とばかりに必死にもがき苦しんでいた。それなのに不思議と危機感や焦燥感はなかった。国民はもはや何も期待していなかったからだ。こんなにも弱いチームはおれたちの代表ではないと。
 そんな中での2008年8月。W杯・南アフリカ大会欧州予選を前に、新たな代表監督が決定された。一国の将来を担う男。セルビアサッカー協会は最後の賭けに出た。

「セルビア代表は攻撃的でなければならない」

 ラドミール・アンティッチ。予選が始まる約10日前に就任が決まった60歳のセルビア人監督の戦いがこうして始まった。アンティッチは選手時代をパルチザン・ベオグラード(セルビア)、フェネルバフチェ(トルコ)、サラゴサ(スペイン)、ルートン・タウン(イングランド)で過ごした後、監督としてのキャリアをスタート。卓越した戦術と人心掌握術で、レアル・マドリー、アトレティコ・マドリー、バルセロナなどのスペイン強豪クラブを率いると、監督としての地位や名声を確固たるものにした。彼の代表監督就任はセルビアサッカー協会のかねてからの希望であり、必死の懇願の結果でもあった。

 アンティッチはまず選手を奮い立たせた。
「セルビア代表は攻撃的でなければならない。対戦相手が誰であろうと、そのスタイルを曲げることは許されない。それに、われわれは決して『誰かよりも劣っている』と考えてはいけない」
 ペトコビッチ、クレメンテ、ジュキッチは守備的なサッカーを好んだ。そして失敗した。アンティッチは彼らの真逆、第一に攻撃的であることを最重要事項としてチーム作りに取り組んだ。さらに、代表チームは一国の未来を担うプロ集団であると教え、規律を重んじることの重要性を説き、秩序を乱すことを嫌った。アンティッチの就任でチーム内にピリッとした緊張感が生まれ、選手のサッカーに対する姿勢は明らかに変わっていった。

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著者プロフィール

1961年2月13日ウィーン生まれ。セルビア国籍。81年からフリーのスポーツジャーナリスト(主にサッカー)として活動を始め、現在は主にヨーロッパの新聞や雑誌などで活躍中。『WORLD SOCCER』(イングランド)、『SID-Sport-Informations-Dienst』(ドイツ)、日本の『WORLD SOCCER DIGEST』など活躍の場は多岐にわたる

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