元U−17サッカー日本代表、一木太郎のセカンドキャリア=夢のセーフティーネット

宇都宮徹壱

1993年のU−17世界選手権

93年のU−17世界選手権で一木(前列右から2人目)は、宮本(後列右端)、中田(同右から2人目)らとプレー 【Photo:アフロ】

 一木太郎は東京・八王子の出身。小学5年生で、読売クラブ(現東京ヴェルディ)のジュニアに入団し、黄金時代の読売の伝統と雰囲気を肌で感じながら、プレーヤーとしての技術を磨いた。高校は桐蔭学園(神奈川)に進学するも、引き続き読売ユースを選択。そうこうするうちに93年、いよいよJリーグが開幕する。だが当時の一木には、Jリーグブームに夢中になる余裕などなかった。同年8月に日本で開催されるU−17世界選手権のメンバーに招集されたからだ。「あの時は大会に向けて無我夢中だったから、あまり(J開幕の熱気は)気にしていなかったですね」と往時を振り返る。

――ポジションはボランチだったんですよね?

 ずっとボランチでした。たまに、当時でいうスイーパーとか。そのころ意識していたのは、ドゥンガ(元ブラジル代表)とかグアルディオラ(元スペイン代表)とかレドンド(元アルゼンチン代表)なんかのプレーですね。

――当時のU−17代表のメンバーを見ると、18名中、読売が5名もいたんですね(一木、財前、小針清允、長田道泰、佐伯直哉)。まだまだ高校サッカー全盛の時代に、これは特筆すべきことだと思います

 そうですね。監督は小嶺(忠敏)さんでしたが、実質的にはコーチの小見(幸隆)さんがメンバーを選んでいたところはあったと思うんです。具体的な指示も小見さんが出していたので。ただ(選手の間では)高校もクラブも関係なかったですね。みんな各チームから選ばれて来ているので、同年代の友だちのような関係は築けましたよ。

――このチームは財前を中心に回っていたわけですが、中田の印象はどうでした?

 当時の印象からすると、あそこまで彼が飛躍するとは思わなかったですね。努力家だし、真面目だし、あまりプレー中もふざけたことはしないイメージ。チームでの役割も、財前がゲームメークしていて、中田はサイドで起点になっていました。でも、高校(韮崎)やクラブ(ベルマーレ平塚。現・湘南ベルマーレ)での中田は、ゲームメーカーでしたよね。

――そうでしたね。戸田はどうでした? 確か一木さんと同じ桐蔭学園でしたよね

 いましたね、戸田! 彼はキャラクターが違っていました。中田は当たり障りないというか、目立つ感じではなかったけど、戸田は個性が強すぎるというか、目に付くというか(笑)。当時からトンがっていましたね。

――守備陣もそうそうたる顔ぶれがそろっていました。宮本がいて、松田がいて……

 当時は宮本より、松田の方がチーム内での評価は高かったですね。松田はちょうどFWからコンバートされて、DFになって間もないころだったんですが。DFは松田と鈴木(和裕。現水戸)と宮本がいたんですが、実は鈴木が一番評価が高くて、それから松田だったり宮本だったり。宮本が伸びていったのは、そのあとですよね。

――JFA(日本サッカー協会)の資料によると、一木さんはU−17代表で10試合に出場。いずれもスタメンでした。当時は不動のボランチだったわけですね?

 確かに試合はずっと出ていましたし、いつも財前と一緒でした。財前が攻撃で、自分が後ろからサポートするような。当時のシステムは、3−5−2のダブルボランチが基本で、もう1人は石本(慎)。あるいは自分がワンボランチで、中田と財前がオフェンシブだったりしたように思います。

――本大会ではガーナ、イタリア、メキシコ、ナイジェリアと対戦したわけですが、世界との距離はどう感じましたか?

 体格がぜんぜん違いましたね。スピードも違うし。技術はそう変わらないと思ったんですけど、体が強いし、出来上がっている。そういう身体的なところでは、すごく差を感じましたね。わたしの場合、外国人だからといって怖いと思うことはなかったんですが、相手は詰めが早いので、ファーストタッチでどうトラップするかとか、球離れをいかに速くするかとか、そういうところは意識していました。やっぱりサッカーは考えてやらないといけないんだなと思いましたね。

――結局、この大会で日本はベスト8という輝かしい成績を収めることとなりました。一木さんご自身にとって、この経験はどんな財産になりましたか?

 何だろうなあ。自信にはなりましたね。選ばれた人しかできない経験ができたし、クラブに戻ったときに、自分のレベルが上がっているなというのは、すごく感じましたね。ちょうどステップアップの時期だったんですかね。

――若くしてイタリアに渡った森本(貴幸。カターニア)なんかを見ていると、そういう時期での国際経験というのは、とてつもなく大きいですよね

 そうですね。そういう才能を持っていればぐんぐん伸びますね。その意味で、あの大会に参加できたのは、自分の中では大きかったです。

突然の戦力外通告

 ヴェルディに戻った一木には、前途洋々の未来が開かれているかに思われた。チームメートの財前は早くから海外進出を意識し、トップチームに昇格した95年にはイタリアのラツィオに練習参加、翌96年にはスペインのログロニェスへの移籍を果たす(けがのため、1試合も出場せずに帰国)。大会を通して、世界の距離を実感した一木も、財前の海外志向にまったく影響を受けなかったとは考えにくい。しかし当人いわく「まずは日本で結果を残してから」という思いの方が強かったそうだ。ところがトップチーム入りして間もなく、一木は想定外のアクシデントに見舞われる。

――あらためて一木さんのデータを調べてみて驚いたんですが、結局Jでは出場機会が全くなかったんですね

 試合には出ていないですね。チームの選手層が厚かったのもありますけど、ちょうど高校3年のときにヘルニアになって、1年間全然プレーできなかったんです。1年後、トップに上がったときも、ヘルニアの影響と、ちょうど大学受験のために予備校に通っていたので、半分練習して半分予備校に通って、ほとんどみんなと練習できていなかったんです。全体練習が終ったあとに、予備校帰りにトレーナーとリハビリしていました。

――ヘルニアというのは、腰ですか?

 腰ですね、かなり痛くて。足がしびれるような感じで走れませんでした。歩くことはできたんですが、何かの拍子にビリっとくるんです。そういった意味で、かなり悩んだ時期でしたね。

――中央大学に入学したのが96年。その翌年にヴェルディから戦力外通告を受けています。当時のヴェルディといえば、監督が加藤久(現京都監督)さんで、前園(真聖)が入ってきて、かなり期待される部分もあったと思いますが、結果はファーストステージが16位、セカンドステージが12位という散々な成績でした。チームの雰囲気も、決して良くなかったと思うのですが

 あまり良くなかったですね。ちょっと“芸能人”という感じのチームになってきているなと。サッカーだけを純粋に追い求めるのではなくて、何か違う方向に行きかけているような雰囲気はありました。

――ご自身の体調はいかがでしたか?

(トップに上がって)2年目、3年目はだいぶ良くなっていました。サテライトでも出られるようになったんですが、でも契約更新しないということになって。トップには3年いたし、腰も治ってきたんで、もうちょっと頑張りたいと思っていました。ちょうどそのころでしたね。サッカーを職業にして、生きていきたいと思い始めたのは……。

――3年目でようやく「職業としてのサッカー」を意識するようになったと

 そうです。ですから、かなりショックでしたよ。悩んだし、悔しかったです。もう一度、どこかのチームに行ってJで活躍したいという思いはありました。でも、大学に通っているというのもあって、地方には行けない。そうなると、大学のサッカー部に入れてもらうしかなかったんです。ですから、すぐに大学の監督のところに行きました。

――それで、途中から中大のサッカー部に入ったと。逆に、大学を辞めてプロになるという選択肢はなかったんですか?

 自分の中では、それはなかったですね。これは親の影響もあるんですが「文武両道」というのがあって。それに、仮にサッカー選手を引退することになった場合、サッカーしかしていなかったのであれば、違った世界でやり直すのは難しいですし。サッカー引退した後の人生の方がずっと長いですからね。だから、大学を辞めるという思いには至らなかったですね。

――卒業後の進路として、プロに返り咲くということは?

 それは考えていました。昔のつてでセレクションを受けさせてもらおうとしたんですけど。でも大学からJに行くような選手って、何かしら選抜チームに入っていないと、なかなか行けない状況でしたから。そこまでの実績も残していなかったので、そうなると行けるところは実業団でしたね。だから本田(技研。現Honda FC)とソニー仙台のセレクションを受けました。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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