元U−17サッカー日本代表、一木太郎のセカンドキャリア=夢のセーフティーネット
1993年のU−17世界選手権
93年のU−17世界選手権で一木(前列右から2人目)は、宮本(後列右端)、中田(同右から2人目)らとプレー 【Photo:アフロ】
――ポジションはボランチだったんですよね?
ずっとボランチでした。たまに、当時でいうスイーパーとか。そのころ意識していたのは、ドゥンガ(元ブラジル代表)とかグアルディオラ(元スペイン代表)とかレドンド(元アルゼンチン代表)なんかのプレーですね。
――当時のU−17代表のメンバーを見ると、18名中、読売が5名もいたんですね(一木、財前、小針清允、長田道泰、佐伯直哉)。まだまだ高校サッカー全盛の時代に、これは特筆すべきことだと思います
そうですね。監督は小嶺(忠敏)さんでしたが、実質的にはコーチの小見(幸隆)さんがメンバーを選んでいたところはあったと思うんです。具体的な指示も小見さんが出していたので。ただ(選手の間では)高校もクラブも関係なかったですね。みんな各チームから選ばれて来ているので、同年代の友だちのような関係は築けましたよ。
――このチームは財前を中心に回っていたわけですが、中田の印象はどうでした?
当時の印象からすると、あそこまで彼が飛躍するとは思わなかったですね。努力家だし、真面目だし、あまりプレー中もふざけたことはしないイメージ。チームでの役割も、財前がゲームメークしていて、中田はサイドで起点になっていました。でも、高校(韮崎)やクラブ(ベルマーレ平塚。現・湘南ベルマーレ)での中田は、ゲームメーカーでしたよね。
――そうでしたね。戸田はどうでした? 確か一木さんと同じ桐蔭学園でしたよね
いましたね、戸田! 彼はキャラクターが違っていました。中田は当たり障りないというか、目立つ感じではなかったけど、戸田は個性が強すぎるというか、目に付くというか(笑)。当時からトンがっていましたね。
――守備陣もそうそうたる顔ぶれがそろっていました。宮本がいて、松田がいて……
当時は宮本より、松田の方がチーム内での評価は高かったですね。松田はちょうどFWからコンバートされて、DFになって間もないころだったんですが。DFは松田と鈴木(和裕。現水戸)と宮本がいたんですが、実は鈴木が一番評価が高くて、それから松田だったり宮本だったり。宮本が伸びていったのは、そのあとですよね。
――JFA(日本サッカー協会)の資料によると、一木さんはU−17代表で10試合に出場。いずれもスタメンでした。当時は不動のボランチだったわけですね?
確かに試合はずっと出ていましたし、いつも財前と一緒でした。財前が攻撃で、自分が後ろからサポートするような。当時のシステムは、3−5−2のダブルボランチが基本で、もう1人は石本(慎)。あるいは自分がワンボランチで、中田と財前がオフェンシブだったりしたように思います。
――本大会ではガーナ、イタリア、メキシコ、ナイジェリアと対戦したわけですが、世界との距離はどう感じましたか?
体格がぜんぜん違いましたね。スピードも違うし。技術はそう変わらないと思ったんですけど、体が強いし、出来上がっている。そういう身体的なところでは、すごく差を感じましたね。わたしの場合、外国人だからといって怖いと思うことはなかったんですが、相手は詰めが早いので、ファーストタッチでどうトラップするかとか、球離れをいかに速くするかとか、そういうところは意識していました。やっぱりサッカーは考えてやらないといけないんだなと思いましたね。
――結局、この大会で日本はベスト8という輝かしい成績を収めることとなりました。一木さんご自身にとって、この経験はどんな財産になりましたか?
何だろうなあ。自信にはなりましたね。選ばれた人しかできない経験ができたし、クラブに戻ったときに、自分のレベルが上がっているなというのは、すごく感じましたね。ちょうどステップアップの時期だったんですかね。
――若くしてイタリアに渡った森本(貴幸。カターニア)なんかを見ていると、そういう時期での国際経験というのは、とてつもなく大きいですよね
そうですね。そういう才能を持っていればぐんぐん伸びますね。その意味で、あの大会に参加できたのは、自分の中では大きかったです。
突然の戦力外通告
――あらためて一木さんのデータを調べてみて驚いたんですが、結局Jでは出場機会が全くなかったんですね
試合には出ていないですね。チームの選手層が厚かったのもありますけど、ちょうど高校3年のときにヘルニアになって、1年間全然プレーできなかったんです。1年後、トップに上がったときも、ヘルニアの影響と、ちょうど大学受験のために予備校に通っていたので、半分練習して半分予備校に通って、ほとんどみんなと練習できていなかったんです。全体練習が終ったあとに、予備校帰りにトレーナーとリハビリしていました。
――ヘルニアというのは、腰ですか?
腰ですね、かなり痛くて。足がしびれるような感じで走れませんでした。歩くことはできたんですが、何かの拍子にビリっとくるんです。そういった意味で、かなり悩んだ時期でしたね。
――中央大学に入学したのが96年。その翌年にヴェルディから戦力外通告を受けています。当時のヴェルディといえば、監督が加藤久(現京都監督)さんで、前園(真聖)が入ってきて、かなり期待される部分もあったと思いますが、結果はファーストステージが16位、セカンドステージが12位という散々な成績でした。チームの雰囲気も、決して良くなかったと思うのですが
あまり良くなかったですね。ちょっと“芸能人”という感じのチームになってきているなと。サッカーだけを純粋に追い求めるのではなくて、何か違う方向に行きかけているような雰囲気はありました。
――ご自身の体調はいかがでしたか?
(トップに上がって)2年目、3年目はだいぶ良くなっていました。サテライトでも出られるようになったんですが、でも契約更新しないということになって。トップには3年いたし、腰も治ってきたんで、もうちょっと頑張りたいと思っていました。ちょうどそのころでしたね。サッカーを職業にして、生きていきたいと思い始めたのは……。
――3年目でようやく「職業としてのサッカー」を意識するようになったと
そうです。ですから、かなりショックでしたよ。悩んだし、悔しかったです。もう一度、どこかのチームに行ってJで活躍したいという思いはありました。でも、大学に通っているというのもあって、地方には行けない。そうなると、大学のサッカー部に入れてもらうしかなかったんです。ですから、すぐに大学の監督のところに行きました。
――それで、途中から中大のサッカー部に入ったと。逆に、大学を辞めてプロになるという選択肢はなかったんですか?
自分の中では、それはなかったですね。これは親の影響もあるんですが「文武両道」というのがあって。それに、仮にサッカー選手を引退することになった場合、サッカーしかしていなかったのであれば、違った世界でやり直すのは難しいですし。サッカー引退した後の人生の方がずっと長いですからね。だから、大学を辞めるという思いには至らなかったですね。
――卒業後の進路として、プロに返り咲くということは?
それは考えていました。昔のつてでセレクションを受けさせてもらおうとしたんですけど。でも大学からJに行くような選手って、何かしら選抜チームに入っていないと、なかなか行けない状況でしたから。そこまでの実績も残していなかったので、そうなると行けるところは実業団でしたね。だから本田(技研。現Honda FC)とソニー仙台のセレクションを受けました。