玉袋筋太郎インタビュー「走ることは加齢に対する反逆」=東京マラソン
初マラソン完走直後にビールで乾杯!
3度目の東京マラソンへ向け、気合いの入る浅草キッドの玉ちゃん 【スポーツナビ】
抽選で当たっちゃいましたね。そこで全部、運を使っちゃっている感じですけど(笑)。
――テレビ番組の企画で出場枠をもらっているわけじゃないんですか?
いや、違いますよ。よく誤解されるんですけど、3回とも普通に応募しているし、参加料も自分で払っているから。ガチですよ、ガチ(笑)。これは、ちゃんと書いてください!
――分かりました(笑)。では、そもそも走り始めたきっかけは?
30歳ぐらいの時に、急に走った方がいいと思ったんです。それは別に、マラソン大会をターゲットにしていたわけじゃないんですけど、何かやらなきゃいけないなという感じで。当時は仕事もなくて、荒れた生活をしていたので、おふくろにアドバイスされたんです。「余分なエネルギーがあるなら、体でも動かしてこい!」ってね。
――それで、39歳の時に初マラソンに挑むわけですが
やっぱり、一度は試してみたいという気持ちがずっとあったんですよ。ちょうどタイミングが合ったのが、たまたま東京マラソンだったんです。その前にずっと走っていたので、下地はできていました。もちろん、年齢的に勇気は要りましたけど。自分でもまさか、42.195キロを走れると思っていなかったですから(記録=第1回:4時間45分30秒、第2回:4時間37分44秒)。
――ゴールの瞬間はどんな気持ちでしたか?
おれの場合、スタート地点の西新宿生まれで、東京マラソンのコースにはすごく思い入れがあったから、途中で号泣しちゃって。自分の今まで生きてきた思い出が、応援してくれるんですよ。もちろん、沿道の皆さんの声援もあるんですけど。自分の人生に語りかけながら走っていましたね。
逆に、ゴールの時は清々しい気持ちでしたよ。しかも、1回目の時はゴールしたあとに、ビールを飲んでタバコを吸って、またそれが新聞に載っちゃって(笑)。3万人の中で、そんなことをしているのはおれ1人だけでしたけどね。
「駄目な生活に勝ちたかった」
インタビュー中、意外な過去も告白してくれた 【スポーツナビ】
全然なかったです。それまでずっと運動していなかったですし、学生時代も帰宅部でした。中学3年生の時は、体育の成績表が1学期から3学期まで全部1でしたから。もちろん、さぼっている意識もありましたし、とにかく嫌だったんです。汗をかいたりするやつとか、さわやかなやつが嫌いだったんです。だから、「おれは運動神経を切った」とか周りに言っていたぐらいで。
――30歳から走り始めて、楽しいと思えたんですか?
全然思えなかったです。つらくて仕方がなかったです。お金もなかったので、ドタ靴で走っていたら、つめははがれるわ、血だらけになるわで。
――なぜ走り続けたんですか?
それはやっぱり、駄目な生活に勝ちたかったからですよね。駄目な方に行ったほうが楽だったんでしょうけど、おれは負けないぞという気持ちで走っていました。
それとモチベーションになったのが、当時格闘技の番組をやっていたことです。もともとプロレスファンで、ほかにもボクシングとか格闘技は全般的に見ていました。それで、自分が何もしていないブヨブヨした体なのに、試合を見て、あの選手はしょっぱい、つまらない試合だと言っているのがずるいなと思って。自分が応援している選手たちも練習しているんだから、俺もやろうと。そうするとね、見るときの感情が全然違うんですよ。おれも一緒に練習してきたという気持ちがあるから。
――テレビで見るイメージと違って、結構ストイックですね
全然ストイックじゃないですよ(笑)。酒も飲むし、タバコも吸うし。ただ自分で決めていることがあるんです。自分で勝手に『オレ部』という部活を作って、監督も、コーチも、レギュラーも、補欠も、全部自分だと。やるのも、さぼるのもすべておれだって気持ちでやる。そうすると、一人の『オレ』が4日ぐらいさぼったら、もう一人の『まじめなオレ』が出てきて、やらなきゃ駄目だって言うんですよ。ビリー・ミリガンみたいに(笑)。それでよし! じゃあやろうかと思えるんです。
――じゃあ、普段は結構ムラがあるんですね
もうムラだらけ、ムッシュムラムラですよ(笑)。もちろん、追い込んだ方がいいんでしょうけど、そういうのは嫌いなので。後々やっとけばと思うこともあるんですけど、そこまでする必要もないだろうと。最初は周りに走っていることを言ってなかったですし。競馬で「馬なり」って言うじゃないですか。だからおれは「オレなり」でやっている感じなんですよ。