転向者の険しい道のり
石井慧も慕う小川直也は、世界柔道選手権2階級制覇、1992年バルセロナ五輪95キロ超級で銀メダル、さらに全日本柔道選手権で7度の優勝など、柔道界では他を寄せつけない実績を持っている。
その小川がプロレス活動を経て、PRIDEに初参戦したのは99年4月のことだった。この時、小川はゲーリー・グッドリッジにアームロックで一本勝ち。その後は、佐竹雅昭、ステファン・レコと打撃格闘家に勝利を重ねる。しかし、04年6月ジャイアント・シルバに勝利したのを最後に、以降はエメリヤーエンコ・ヒョードルと吉田秀彦に一本負けを喫すると総合格闘技への参戦はなくなった。
小川は総合格闘技とプロレスの間をうまく行き来し、自分の格闘家としての価値を最大限に保ってきたが、総合の世界では戦う相手が強くなるにつれ、いつしか限界が見えてしまった。
2000年シドニーオリンピック・レスリンググレコローマンスタイル69キロ級銀メダリストの永田克彦が総合格闘技に初参戦したのは05年の大みそか。この時は、レミギウス・モリカビュチスに判定勝利を収めたものの、その後は厳しい対戦相手との戦いを強いられ、現在まで戦績は8戦4勝。戦績もさることながら、“戦い方”においてもファンの心をなかなかつかむことはできず、順風満帆とは言えない第2の格闘技人生を闘っている最中だ。
ボクシング日本ミドル級王者だった鈴木悟がK−1に参戦したのは、ボクシング引退からわずか4カ月後の05年12月のことだった。しかし、K−1初戦でマイク・ザンビディス相手にKO負けを喫すると、その後は現在に至るまでTKOも含めて5連敗。転向当時と比べるとファイターとしての価値は大暴落してしまった。
92年のバルセロナオリンピック78キロ級で金メダルを獲得し、00年シドニー五輪90キロ級にも出場した吉田秀彦がプロ格闘技に初参戦したのは、02年8月のDynamite!!。この時、吉田は道衣着用ルールでホイス・グレイシーと対戦し、袖車で一本勝ち。その後は、ドン・フライ、佐竹雅昭、田村潔司に勝利し、ヴァンダレイ・シウバにプロ初黒星を喫するまで4連勝を収めている。
しかし、シウバ戦後、再びホイスと対戦しドローに終わると、その後は勝ち負けを繰り返し、新しい世界の厳しさを味わっている。吉田は総合格闘技の世界でも名声を得たという意味では成功者だが、決して平坦な道を歩んでいるわけではない。
プロ転向後、良くも悪くも名声を最も得たと言っていいのが、同じく柔道出身の秋山成勲。秋山は柔道時代、オリンピックの出場経験はないものの、プロ格闘技に転向してからはジェロム・レバンナにKO負けした以外、2度の無効試合を除けば、すべて勝利で15戦12勝1敗(2無効試合)と、圧倒的な強さを見せている。この勝率は転向者として非常に高く、秋山の持つ格闘家としての能力が高い次元にあることを物語る。
それぞれの転向者たちの経歴を見る限り、それまでの肩書きが新天地ではあまり役に立たないことが見てとれる。しかし、反対に秋山のように、例え以前の競技で頂点を極めてはいなくとも、新しい舞台で能力を開花させることもある。
同じ格闘技とはいえ、柔道から総合格闘技や、ボクシングからK−1などへの転向は、いくらメダリストやチャンピオンであろうと、ゼロからのスタートといってもよい。以前の競技で一流のアスリートであった転向者たちだが、新しい舞台でのアドバンテージは、体力面や精神力などのごく限られたものと見るのが妥当だ。
そんな彼らを少しずつ強くし、さらに強く見せていくには、プロモーターの気配りのあるマッチメークも必要となってくる。上記した選手たちの過去のマッチメークを眺めてみると、絶妙なバランスでマッチメークが行われていることが多い。強い選手ばかりでも格下の選手ばかりでもなく、総合ルールにおいて打撃系の選手と戦わせるなど、マッチメークには最大限の配慮が感じられる。
もちろん、石井のことだからその辺りはすでに想定済みのはず。石井にとってUFCへの挑戦とは、「ゼロからの出発」と自分自身に諭す行為でもあるのだろう。
アジアでの大会開催も噂されるUFC。今後、石井がUFCにて、プロモーションの庇護なしにトップ戦線まで這い上がってきたならば、本物の総合格闘家として大きな脚光を浴びることになるだろう。誰もが想像だにしなかった石井慧のUFC挑戦。1〜2年で結果が出るとは到底思えないが、長い時間をかけ本物の総合格闘家として日本に帰ってくることを願いたい。
格闘家における競技の転向は、同じ格闘技の枠組みとはいえ、ゼロからの出発を意味し、険しく困難な道を選ぶということだ。転向者たちの勇気を称え、彼らがどのように新しい道を歩んでいくのかファンは長い目で見守りたい。
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