平野孝、北米で駆け抜けた左サイド=インタビュー
これからもサッカーで生きるしかないし、生きていきたい
「これからもずっとサッカーで生きる」。平野のサッカー人生に終わりはない 【スポーツナビ】
正直、僕は「名波さんは一生引退しないんじゃないか」と思っていました。高校も同じ(清水商業高校)で、彼のことはよく知っていますし、尊敬する先輩です。
昔から名波さんにはこう言われていたんです。「おれが辞める前に、おまえが先に辞めたら許さない」と。だから、絶対辞められないとずっと思っていました。それに先日会ったときは、「現役選手でいられるときは、120%の力でやらないとダメだ」とも言われました。あとは、「おまえが海外に行くとは思わなかった」ともね(笑)。ただその後、「(海外でやりたいという)思いがあるのなら、その思いをつらぬけ」と、ありがたい言葉をいただきました。
――現役には、とことんこだわると
体が動く限りはサッカーをやり続けていきたい。ただその後は、自分が決める引退もあれば、自分で決められない引退もあるので、先のことはまだ何も分からないです。だから今は1年1年プレーできる喜びを感じながらサッカーをやっていきたい。
ただ、10年後も現役でいられるのかと聞かれたら、それは難しい。残りのサッカー人生でやれることも限られているので、今後のことを考えていかないといけないのかなと。
――チームはMLS参入という大きな夢があって、その夢が実現するところまで来ています。今の平野選手が抱いている夢や目標といったものは何ですか?
具体的な夢はまだ見えていません。ただ、小学校4年生のときからサッカー人生を歩んできて、24年が経ちます。僕はサッカーだけで生きてきたんです。だから、きっとこれからもサッカーで生きるしかないし、生きていきたい。
今後、サッカーはもっともっと世界に向かって広がっていくと思います。その広がりの手助けができたらいいですね。
インタビュー中で見せた笑顔が実に印象的だった。まるで新人選手のような初々しい笑顔からは、「34歳になってもサッカーがうまくなりたい」という飽くなき向上心と、いまなおサッカー選手として成長過程であることの満足感が感じ取れた。
「1年1年プレーできる喜びを感じながらサッカーをやっていきたい」。日本を飛び立った“左サイドのスペシャリスト”は、太平洋の向こう側でも、変わらぬ姿でタッチライン際を走り続けていく。
<了>
■平野孝/Takashi HIRANO
1974年7月15日生まれ、静岡県静岡市清水区出身。清水商業高校から1993年に名古屋グランパスエイト(現名古屋グランパス)に入団。1年目から左サイドハーフとしてレギュラーを獲得し、95年、99年には天皇杯で優勝した。2000年に京都パープルサンガ(現京都サンガF.C.)に移籍し、その後ジュビロ磐田、ヴィッセル神戸、東京ヴェルディ1969(現東京ヴェルディ)、横浜F・マリノス、大宮アルディージャでプレー。今年3月に米独立リーグのUSLに所属するバンクーバー・ホワイトキャップスに加入すると、30試合中22試合に出場。チームのリーグ優勝に貢献し、リーグベストイレブン、チーム内新人賞にも選出された。日本代表としては、98年ワールドカップで2試合に出場