種目変更で世界王者に 三段跳びのプリンス――C・オルソン=Quest for Gold in Osaka

K Ken 中村

伝説の王者エドワーズ引退後、アテネ五輪で金メダルを獲得するなど、“次なる時代”を築いているオルソン 【写真/陸上競技マガジン】

 三段跳びのプリンスが帰ってくる。2003年世界選手権(=世界陸上)と04年アテネ五輪の金メダリスト、クリスチャン・オルソン(スウェーデン)が、国際大会で再び輝くときが来た。オリンピックの決勝で足を傷めたオルソンは翌05年シーズンを棒に振った。回復には時間を要したが、06年6月の復帰戦では、日本記録と比較すると6センチ足りないだけの17m09をマーク。8月の欧州選手権を17m67で制し、完全復活の日が近いことを印象付けた。
 192センチ・73キロの27歳。金髪をなびかせてジャンプするさまは、パワフルでありながら優雅だ。自己ベストは17m79。世界記録にあと50センチだ。ちなみに実力と容姿をともに持ち合わせたオルソンは、2005年からの3年契約でTDK(世界陸上のゼッケンスポンサー)のイメージキャラクター契約を結んでいる。この5月11日には関西の大学の跳躍選手を対象としたセミナーを、世界陸上の舞台となる長居競技場で実施する。
『陸上競技マガジン』(ベースボール・マガジン社)では、02年10月号において、オルソンの生い立ちから世界のひのき舞台で輝くまでのサクセス・ストーリーを紹介している。
〜以下、『陸上競技マガジン』2002年10月号より転載〜

「人生とは、ほかの計画を練っている間に過ぎ去っていく出来事」
 この格言を残したのは、今は亡きジョン・レノンだが、スウェーデンの男子三段跳び選手、クリスチャン・オルソンがこの言葉を口にしても、なんら不思議ではない。なぜなら、昨年21歳にして、“三段跳びの皇帝”ジョナサン・エドワーズの最も手強い挑戦者として浮上したオルソンには、今日の彼を築き上げるための壮大な計画があったわけではなかったからだ。

「単なる偶然」で陸上の道へ

 2004年アテネ五輪、男子三段跳びの優勝候補に挙げられるオルソンが陸上を始めたのは、10歳のとき。それは、スポーツ好きの少年がたまたま目新しいことに興味をもつ……そんな、どこにでもあるような出来事にすぎなかった。陸上クラブ「アーグリューテ」に入部したのも、単なる偶然としかいいようがない。3歳年上の姉のクラスメートがその陸上クラブに通っていて、新進の棒高跳び選手だった……ただそれだけのことである。ちなみに、その「新進の棒高跳選手」とは、現在、5m83のスウェーデン記録を保持する、パトリック・クリスチャンソンである。
 陸上を始めたばかりの少年の多くがそうであるように、オルソンもまた、陸上種目のほとんどすべてにチャレンジした。当初、クロスカントリーに才能を発揮したが、彼自身が最も興味を示したのは、走り高跳び。11歳で1m45、12歳で1m55、13歳で1m68、さらに14歳で1m79と、順調に自己記録を伸ばしていった。特に目立った活躍をしていたわけではないが、「有望株」の少年の一人だったようだ。

長く続いた少年時代の低迷

 オルソンは10年ほど前から、ビィルヨ・ノウシィアイネンの指導を受けるようになったが、このことが彼の走り高跳びへの思いをいっそう駆り立てることになる。ノウシィアイネンは、同郷の長身の若者、パトリック・ショーベリー(※注)を世界的なハイジャンパーに育て上げた伝説のコーチとして知られていたが、オルソンは、16歳でシニアのタイトルを獲得したショーベリーのような上達の速さはもち合わせてはいなかった。16歳になった時点で、彼は国内ユース選手権のメダルにもとうてい手が届かないような選手だった。発育が遅く、筋力不足のオルソンは、素晴らしいテクニックをもちながらも、年上の選手たちと競い合うだけのものをもっていなかったのである。
 だが、それでもオルソンには、走り高跳びをあきらめる気持ちはなかった。才能を見抜く眼力をもち、若い年代でのテクニック開拓を主張するノウシィアイネンに励まされ、「自分はきっと一流のハイジャンパーになれる」と信じ込んで練習に励んでいたのだ。
 95年には、自己記録の更新がわずか1センチという停滞もあったが、オルソンの憂鬱(ゆううつ)を吹き飛ばしてくれたのが、地元のスウェーデン(イエーテボリ・ウレビ競技場)で開催された世界選手権だった。素晴らしい気候に恵まれ、熱き戦いに明け暮れた9日間は、15歳のオルソンに強烈な印象を残した。そして彼は、「努力をすれば、いつかは僕もこんな大会に出られるかもしれない」と思ったのである。
 オルソンにとって、世界選手権における最も強烈な思い出は、男子三段跳びのジョナサン・エドワーズが、まるで無重力空間を跳ぶように、世界記録を31センチ更新する18m29をマークしたことである。世界チャンピオンでありながら、謙虚な姿勢を忘れないエドワーズの人柄にも大きな魅力を感じた。
 しかし、それほどまでにエドワーズに魅せられながらも、それが彼を三段跳びに転向させるきっかけにはならなかった。むしろオルソンは、「走り高跳びに打ち込むことこそ自分の使命」と信じてやまなかったのだ。しかし、選手としての成長は依然として遅く、16歳での記録は1m89。17歳で1m93、18歳で2m04と、いずれ世界のトップジャンパーになることなど想像もつかない日々を送っていたのである。

三段跳びで開花した才能

「ハイジャンパー」を自認していたオルソンだが、彼の人生を大きく変えたのは、三段跳びだった 【写真/陸上競技マガジン】

 ただ、低迷は続いていたものの、この頃のオルソンの跳躍を見て、「この選手にはまだ伸びしろがある」と見ていた人は、けっして少なくなかっただろう。あるいは、「この若者はふとしたきっかけで、目を見張るような飛躍を遂げるかもしれない」と感じていた人もいたかもしれない。
 その「飛躍」の時期は、98〜99年にやってきた。室内シーズンでは跳ぶたびに自己記録を更新していたオルソンが、5月最初の屋外競技で、目の覚めるような活躍をやってのけたのだ。
 欧州カップを翌週に控え、スウェーデン代表チーム内で行なった記録会。当時19歳のオルソンは三段跳びに挑み、16m27を記録した。ハイジャンパーでありながら、専門家たちをさしおいて堂々のトップ。この突然の出来事は、世間を大きく驚かせた。オルソンは前年の秋に14m48を跳んでいたが、室内シーズン中に14m83、15m07、さらには15m68と自己記録を伸ばしていった。しかし、追い風参考とはいえ、16m27にまで数字を伸ばすとは、いったい誰が想像しただろう。
 さらに欧州カップでは、自己記録の16m16をマークして2位となり、前週の活躍がフロックではないことを証明してみせた。しかし、この頃のオルソンは、依然として「三段跳もやるハイジャンパー」だった。
 その年、オルソンが狙っていたのは、ラトビアのリガで8月初旬に行われる欧州ジュニア選手権。視線はもちろん、三段跳びではなく走り高跳びに向けられていた。世間の見方も変わっていた。室内で出した自己ベスト2m12を、7月には2m20にまで伸ばしたオルソンには、「メダル候補」として大きな期待がかけられていたのである。
 こうして、初めて国際試合に出場したオルソンは、まるでベテランのような試合運びを披露した。自己記録の2m21をクリアした彼は、メダルどころか優勝まで手に入れてしまったのである。さらに翌日の三段跳びでも、もう少しで金メダルに届くほどの活躍を見せた。16m18を跳んだオルソンは、トシン・オケ(イギリス)が最後の跳躍で16m57(5回目までは15m95)を出さなければ、もしかすると2冠をモノにしていたのだ。
 リガでの活躍にとどまらず、オルソンはより高く、遠くまで跳び続けた。イエーテボリの競技場で行われた伝統あるフィンランドとの対抗戦では、三段跳びで優勝(16m59、追い風参考)を果たし、走り高跳びでも2位(2m22)に。さらにその数日前には、カールスタード(スウェーデン)で、世界のトップ10に数えられるステファン・ホルムとスツファン・ストランドを破っている。

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著者プロフィール

三重県生まれ。カリフォルニア大学大学院物理学部博士課程修了。ATFS(世界陸上競技統計者協会)会員。IAAF(国際陸上競技連盟)出版物、Osaka2007、「陸上競技マガジン」「月刊陸上競技」などの媒体において日英両語で精力的な執筆活動の傍ら「Track and Field News」「Athletics International」「Running Stats」など欧米雑誌の通信員も務める。06年世界クロカン福岡大会報道部を経て、07年大阪世界陸上プレス・チーフ代理を務める。15回の世界陸上、8回の欧州選手権などメジャー大会に神出鬼没。

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