お雑煮で育った日系デカスリート――B・クレイ=Quest for Gold in Osaka

K Ken 中村

2005年ヘルシンキ世界選手権で金メダルを獲得したクレイ。日本人のDNAを有する米国人が今夏、初めて第2の故郷に上陸する 【写真/陸上競技マガジン】

 デカスロン(十種競技)は陸上競技の3要素『走・跳・投』に一人で挑む種目だ。競技は2日間にわたり、1日目に100m・走幅跳・砲丸投・走高跳・400m、2日目に110mH・円盤投・棒高跳・やり投・1500mを競い、記録を得点に換算して、合計点を争う。競技者にはあらゆる能力が求められるゆえ、勝者は「キング・オブ・アスリーツ」として称えられる。
 大阪世界選手権で優勝候補に名を連ねるのが、世界記録(9026点)保持者のローマン・シェーブレー(チェコ)、そして成長著しいブライアン・クレイ(米国)である。日本人の母と米国人の父の間に生まれたブライアンは180センチ、84キロと、体格には決して恵まれていない。しかし、初めての世界大会出場となった2004年のアテネ・オリンピックで銀メダルを獲得し、05年ヘルシンキ世界選手権ではついに金メダルを手にした。2位に甘んじたシェーブレーとの得点差211点は、世界大会における1・2位の最多得点差となる圧勝だった。05、06年と世界ランキングトップを飾り、自己ベストは8820点。これは世界歴代6位にあたり、ダン・オブライエン(米国)が持つ全米記録8891点の更新も時間の問題となってきた。
 04年に結婚し、翌年には長男誕生と、公私ともに充実の27歳。日本人のDNAを有する米国人が、この夏、初めて第2の故郷に上陸する。『陸上競技マガジン』(ベースボール・マガジン社)では、04年9月号において、クレイの生い立ちからアテネ五輪への出場権を手にするまでの道のりを紹介している。
〜以下、『陸上競技マガジン』2004年9月号より転載〜

母は北海道出身、ハワイを故郷と呼ぶ24歳

 ハワイ生まれの日系3世であるブライアンの祖父(石本つもる氏)は、アメリカ軍諜報機関の一員として来日し、16年間日本で暮らしていた。そのときに、東京生まれの祖母に静岡で出会い、結婚。ブライアンの母ミシェルが生まれた。北海道生まれのブライアンの母は、横浜の小学校に通っていたという。1966年に家族はハワイに帰り、母は米国で育った。やがて軍人だったアメリカ人と結婚して、ブライアンが生まれたのである。
 結婚51年を迎える祖父母は、ブライアンの幼年時の教育と躾(しつけ)に大きな影響を及ぼしたという。
「小さいころ、わが家はアメリカ人の家庭というよりは、日本人の家庭だった。正月にはお雑煮も食べていたしね」
 その祖父母は今も元気で、ブライアンの競技生活を支えている。
 80年1月3日、テキサス州オースティン市に生まれたブライアン・つもる・クレイは、5歳の頃に、家族とともにハワイに移り住んだ。大学に入学するまでを過ごしたハワイを、彼は故郷と呼んでいる。サクラメントで行われた全米五輪選考会に優勝したときも、ブライアンはハワイの州旗を持って競技場を一周するほどの思い入れがあった。そのビクトリー・ラップのあと、地元ハワイのテレビ局から特別番組に急きょゲスト出演の依頼があり、気ぜわしいドーピング検査の前にもかかわらず、快く引き受けた。
「小5から中2まで、バスケットボールやサッカー、アメリカンフットボールの休憩時間にはケンカばかりしていた」
 ブライアンは、母からチームスポーツに参加することを禁じられるほどの悪ガキだった。しかし、あり余るエネルギーをスポーツで発散する必要があると考えた母親は、息子に個人競技である陸上競技か競泳を勧めた。どちらのスポーツも得意だったブライアンは、「水着のとある有名ブランドが好きじゃなかった」ので陸上競技を選んだ。「陸上を始めた頃、あこがれていた選手はカール・ルイスだった」というブライアンは、ほんの他愛もない理由で陸上競技への道を歩み始めたのである。
「オリンピックに行けたらいいなと思っていたけど、どの種目なら行けるのか? それだけの才能があるのか? それともそれは夢のまた夢なのか、皆目わからなかった」
 ブライアンが11歳の頃、両親が離婚。のちに、母親はブライアンと弟を連れてマイク・バンデンバーグ氏と再婚した。その義父のおかげで家族の絆を強くしたという。当時、小6だったブライアンはカイルア陸上クラブに入った。最初のコーチは、長距離ランナーとして一世を風靡(ふうび)したダンカン・マクドナルドだった。
「最初のころは1位や2位になることは少なかった。3位、4位になることが多かったし、5位に終わることもあった」
 ブライアンは当時をこう振り返る。
 高校の陸上部に入ってからも、夏休みの間はカイルア陸上クラブで走っていた。キャッスル高時代は、コーチのマーティン・ヒーの方針で1日6種目(競技規則で高校生が参加できる最多種目数)に出場していた。まさに、ワンマン陸上チームだったのである。
「100m、200m、400m、110mH、走幅跳、走高跳、三段跳、そして4×100m、4×400mの両リレーに参加していたので、知らず知らずの間に十種競技の練習をしていたんだ」
 彼にとって飛躍の年は、高校2年生の時だった。
「自分の記憶が確かならば、高2のとき、州高校選手権で100m、200m、110mHで優勝、走幅跳で1位になった。そして翌年には、その4種目に優勝した上に、州記録も出しました」

十種競技へといざなうクリス・ハフィンとの出会い

 そんな彼が混成競技に手を染めるようになったことは、自然の成り行きだろう。しかし、本格的に十種競技を始めるきっかけとなったのには、ある出会いがあった。高1のとき、マウイ島で行われた夏の陸上クリニックで、ブライアンは2000年五輪の十種競技銅メダリスト、クリス・ハフィンと出会った。「クリスは私にハードル、砲丸投、棒高跳などほかの種目を教えてくれた。彼のおかげで高2からハードルを走るようになったのです。当時はクリスがそんなすごい選手だとは全然知らなかった」
 ハフィンはクレイに十種競技を勧めただけでなく、高3のときにはクレイに、南カリフォルニアにあるアズサ・パシフィック大の陸上コーチであるケビン・リードも紹介した。
「ケビンは陸上の才能を最大限発揮できる選手に育て上げるだけでなく、人としても最高のものを引き出すように、最大の努力をするコーチなんだ」
 そのアズサ・パシフィック大は92年五輪銅メダリストのデェイブ・ジョンソンの母校でもあり、リードコーチはそのジョンソンのコーチでもあった。
「学校を訪れて、家庭的な雰囲気にひかれ、ここに進もうと決めた。幼いころ育ったハワイを思い出させてくれたのが、大きな理由の一つだね。アズサ・パシフィック大は選手としてだけではなく、人間としての自分にも興味を示してくれたんだ。そこには、ケビン・リードという素晴らしいコーチもいた」

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著者プロフィール

三重県生まれ。カリフォルニア大学大学院物理学部博士課程修了。ATFS(世界陸上競技統計者協会)会員。IAAF(国際陸上競技連盟)出版物、Osaka2007、「陸上競技マガジン」「月刊陸上競技」などの媒体において日英両語で精力的な執筆活動の傍ら「Track and Field News」「Athletics International」「Running Stats」など欧米雑誌の通信員も務める。06年世界クロカン福岡大会報道部を経て、07年大阪世界陸上プレス・チーフ代理を務める。15回の世界陸上、8回の欧州選手権などメジャー大会に神出鬼没。

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