15年後のドーハにて=日々是最終予選2008−09

宇都宮徹壱

「ドーハの悲劇」は「悲劇」だったのか?

この日練習が行われたドーハのアルワクラ・スポーツクラブ。晩秋のカタールは、少し肌寒いくらいだ 【宇都宮徹壱】

 関西空港からの直行便で、およそ10時間。カタールの首都・ドーハに到着したのは、17日の現地時間午前6時のことである。到着したのが早朝だったこともあり、心配していたほど暑さは感じられない。さすがに11月ともなると、中東でも風はさわやかに感じられる。少なくとも9月のマナマ(バーレーン)のように、猛烈な暑さと湿気に日本代表が苦しめられることはなさそうだ。2日後の19日、ここドーハのアル・サード・スタジアムにて、2010年ワールドカップ(W杯)・南アフリカ大会アジア最終予選、カタール対日本の試合が行われる。予選2試合を終えて勝ち点4の日本にとっては、この折り返し地点でのアウエー戦は正念場。その重要な試合が、ここドーハで行われる。

 ドーハを訪れるのは、実は今回が初めてである。
 同業者の中で、15年前に当地で行われたアジア最終予選を取材していたのは、いずれも大ベテランの方々ばかり。一方、私はといえば多くの日本人がそうであったように、まなじりを決して自宅のテレビの前で観戦し、やがてぼう然自失したひとりであった。セントラル方式で行われていた最終予選最終日。日本が土壇場でイラクに引き分け、当時2枠しかなかったアジア代表の出場権を目前で逃したこの試合が、のちに「ドーハの悲劇」として繰り返し語られるようになったのは、周知のとおりである。

 もっとも、あれから年月を経た今にして思うと、あのゲームを「悲劇」と呼ぶのは、いささかナイーブに過ぎたようにも思う。それは、世界に目を転じて、歴史上「悲劇」と呼ばれたゲームを振り返ってみれば明らかである。
 W杯開催国のブラジルが、ウルグアイとの優勝決定戦に逆転負けを喫した1950年の「マラカナンの悲劇」(2名がその場で自殺、2名がショック死)。85年のチャンピオンズカップ決勝でサポーター同士の衝突により修羅場と化した「ヘイゼルの悲劇」(死者39名、負傷者400名以上)、英国サッカー史上最悪の惨劇となった89年の「ヒルズボロの悲劇」(死者96名、負傷者200名以上)、などなど。

 これらの「悲劇」と比べれば、93年のドーハで起こったそれは、死者が出たわけでもなければ、取り返しのつかないことが起こったわけでもない。悲願のW杯出場を逃した悲しみは確かにあったが、94年W杯・米国大会ではイングランドもフランスも予選で敗れており、決して日本だけが「悲劇の主人公」だったわけではないのである。

「ドーハ」を知らない選手たち

チームに合流後、さっそくランニングを始める中村俊輔。左ひざの状態が心配されるが…… 【宇都宮徹壱】

 むしろ、あの日があったからこそ、その後の日本サッカー界の発展があったわけで、その意味では「悲劇」というよりも、極めて象徴的な「メルクマール」(指標)ととらえるべきなのだろう。従って、戦いの場がドーハだからといって、何も気負う必要などない。幸い選手たちは、はなからそうした感情は抱いていない様子。記者たちが15年前の「悲劇」を持ち出しても、彼ら自身はそれほど鮮烈な記憶は持ち合わせていないのは明らかである。

「(「ドーハ」のときは)中学生でした。生で見ていなかったと思いますが、寂しい気持ちになりましたね。(今回の)ドーハでは、いい思い出になるようにしたいです」(玉田圭司)
「自分は小学生でしたから、あまり覚えていないですね。関係ないです」(田中達也)

 当然だろう。あの試合のキックオフは日本時間の22時15分。サッカーをやっている小中学生なら、とっくに床に就いている時間帯である。しかし一方で、今さらながらに時の移ろいを実感せずにはいられない。チーム最年長の川口能活と寺田周平は、当時18歳だったからリアルタイムで覚えているだろうが、香川真司や内田篤人や安田理大に至っては4、5歳の未就学児。そんな彼らにとって「ドーハ」とは、半ば歴史に属するエピソードでしかないのも、無理もない話である。むしろ「ドーハ」に最もこだわっているのは、今回の合宿で、当時の映像をスタッフに用意させた岡田武史監督自身なのかもしれない。ちなみに監督はあの日、NHK−BSで試合の解説をしていた。試合終了後、画面がスタジオに切り替わった時の能面のようにこわばった表情は、今でも鮮明に覚えている。

 さて、17日の練習で最大のトピックスといえば、やはり中村俊輔の合流に尽きるだろう。冒頭15分の公開が終わり、練習がクローズされてから約30分後、突然、一台の車がスタジアムの前に停まり、中村が出てきたのには誰もが驚かされた。
 この日、中村は別メニューでランニングをしたり、リフティングやドリブルをしながら、先日のリーグ戦で痛めたひざの具合を確認していた。全体練習が終わり、選手たちが囲み取材に応じている間も、中村はひとり黙々と汗を流している。左ひざに巻かれたテーピングが、いつも以上に痛々しく感じられた。2日後に迫った本番で、どれだけプレーできるかは当人にも分からない。それでも「90分、行け」と言われれば、やるつもりだ。

「若い時から『代表あっての自分』だから。昔からラモスさん(ラモス瑠偉)の時とか、カズさん(三浦知良)とか見ているからかな。痛みをこらえてできるなら、やるし」

 練習後、カタール戦に出場することの使命感について問われて、中村は少し照れ笑いを浮かべながら、こう語った。彼にとっても、15年前のドーハは、遠い世界での出来事でしかなかった。それでも代表に懸ける思いは、当時の代表選手たちと何ら変わるところはない。中村のこのコメントを耳にした瞬間、このドーハの地で初めて、15年前と現在とがクロスオーバーしたような気がした。

<了>
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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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