心優しいスイマーがつかんだ“きずなの金メダル”

萩原智子

8月13日、男子200メートルバタフライで松田が銅メダル、「あきらめず努力続けた結果」とコメント 【Photo:ロイター】

 松田丈志選手が、200mバタフライで銅メダルを獲得しました。彼は表彰式直後、ビクトリーロードを歩いて行くはずが、なぜか逆方向へ――その場所にいたのは、小学生時代から二人三脚で歩んできた、久世由美子コーチでした。一目散に駆け寄り、表彰式で受け取った花束を手渡す松田選手。久世コーチは涙が止まりませんでした。このシーンは、選手と指導者のきずな、そして松田選手の人間性を垣間見れた瞬間でもありました。
「コーチとの二人三脚を誇りに思っています。形に残したいと思っていました」と話し、コーチへの感謝の気持ちを表した松田選手。彼は、心優しいスイマーなのです。

ビニールハウスという厳しい練習環境

 松田選手の故郷は、宮崎県延岡市。地元には、通称「ビニールハウスプール」が存在しています。冬でも屋外プールで練習ができるようにと、父兄や地元ボランティアがビニールハウスの囲いを作ってくれたのです。松田選手は幼いころからその手作りプールで、どんなに暑くても、どんなに寒くても練習を続けてきました。正直、日本のトップ、世界のトップの選手が練習をする場所ではありません。
 しかし、松田選手を20年間指導してきた久世コーチは言います。
「ぜい沢を言えば、きりがない。腐らないで、今ある環境で頑張るんよ!」
 久世コーチの指導のモットーは、「人間力」。「一流になるためには、心も成長しなければ強くなれない」といつも話してくれます。

 松田選手はアテネに続く、2度目の五輪出場。4年前は準決勝敗退に終わりました。決勝の舞台で泳げる実力を持っていながら、力を出し切れず、悔しい思いをしました。そのとき感じたのは、「五輪は出るだけではダメなんだ。勝負して、メダルを取る場所だ」ということ。アテネでは、“ミスターバタフライ”と言われた山本貴司選手が200mで銀メダルを獲得。その姿を観客席で見つめ、もう一度真剣勝負に帰ってきたいと心に誓いました。
 それからは北京五輪で勝負するために、体幹の強化や筋肉を大きくするためのウエートトレーニング、そしてフォーム改造など、地道な努力を重ねていきました。

すべては北京五輪のために

 松田選手の弱点は、スピードでした。もともと自由形の長距離を泳いでいたため、持久力では自信がありました。それゆえ、これまでの200mバタフライでは、最後の50mで強烈なライトスパートをするレースパターン。しかし世界と戦う際には、150mまでに大きく引き離され、最後の50mのラストスパートだけでは追いつくことができなかったのです。世界と戦っていくためには、前半で周りに遅れをとらないで、しっかりと世界のスピードについていけるのかが、大きな課題でした。

 持久力は厳しいトレーニングから生まれますが、スピードは持って生まれた天性とも言われています。スピードを身につけるためには、相当な筋力アップ、体幹のトレーニングが必要です。しかし、スピード練習ばかりに気を取られていると、持久力の練習がおろそかになってしまい、彼自身の最大の武器を失うかもしれない大きな決断でした。このスピードを得るための練習を取り入れるようになってからは、記録がなかなか伸びない、スランプの時期を過ごしました。苦しかったはずです。自分たちの決断が間違っていたのか、不安だったでしょう。しかし二人は、しっかりと話し合い、覚悟を決め、じっと我慢しました。
 そんな時期、久世コーチは「私たちは、前に進まんと!」と話していました。「すべては北京五輪のために」と信念を変えずに続けたトレーニング。これは、指導者との信頼関係が強いからこそ、乗り越えることができる期間でした。その努力と我慢が実を結び、本番のレースでは前半から飛び出すスピードを身につけ、持ち前の持久力は最後の最後まで粘れる強さに変わりました。

 この北京五輪の舞台で、松田選手は泳ぐたびに強くなっていきました。前半から世界トップクラスと肩を並べ、レースを引っ張り、最後の最後まで粘り通して銅メダルを獲得。素晴らしいレース展開でした。今まで練習してきた、すべてを出し切れたレースだったと思います。
 4年前の忘れ物を、しっかりと受け取ることができた松田選手。プールから出てきた彼の手には、メダルがありませんでした。獲得したメダルは、久世コーチの手にあったのです。「結構、重いんですよ!」と笑う二人は、五輪のメダルを超えた、きずなの金メダルをしているように見えました。

<了>
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著者プロフィール

2000年シドニー五輪200メートル背泳ぎ4位入賞。「ハギトモ」の愛称で親しまれ、現在でも4×100メートルフリーリレー、100メートル個人メドレー短水路の日本記録を保持しているオールラウンドスイマー。現在は、山梨学院カレッジスポーツセンター研究員を務めるかたわら、水泳解説や水泳指導のため、全国を駆け回る日々を続けている

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