呪縛から解き放たれ、北京で再び輝いた北島

萩原智子

男子100m平泳ぎ決勝 58秒91の世界新記録で優勝し、喜びを爆発させる北島康介 【共同】

 北島康介選手が、またしても有言実行を果たしました。それは、アテネ五輪2冠から苦しみ続けてきた日本のエースが五輪の大舞台で、4年間の呪縛から解き放たれ、見事に輝いた瞬間でした。

覚悟を決めて臨んだ決勝レース

 北京五輪で北島選手が目標としていたのは、100、200mの平泳ぎ2種目において、世界記録で金メダルを獲得することでした。「その快挙を成し遂げるためには、何が必要なのか?」と質問をぶつけたことがあります。彼は考え込み、「リラックスかな……」と答えました。その「リラックス」が今回、大きな鍵を握っていました。
 実は、金メダルまでに相当な葛藤がありました。準決勝の北島選手の泳ぎは、「リラックス」から、程遠い泳ぎだったのです。100mの前半50mは、いつもの大きな伸びのあるスムーズな泳ぎではなく、肩に力が入り、とても小さな泳ぎだったのです。その前半の力みが原因となり、最後の15mで泳ぎが沈んでしまい、動かなくなってしまったのです。決勝に向け、大きな課題と不安が残りました。

 それに加え、北島選手の心を乱していたのは、ノルウェーの新星・ダーレオーエン選手の存在でした。23歳の若さで勢いのある選手が、大きな泳ぎで、予選、準決勝と五輪新記録をマークし、北島選手の持つ日本記録までも超えていたのです。彼の気持ちは、“打倒北島”でした。この新しいライバルの存在に、北島選手も焦っていたでしょう。不安も抱えていたはずです。
 しかし準決勝から決勝までの時間で、北島選手は別人のような泳ぎに修正してきました。この短い時間の中で、決勝での泳ぎと覚悟を固めたのです。彼を支えていたのは、アテネ五輪以降の経験から手にした強い気持ち、そして指導を受ける平井伯昌コーチの存在でした。

 アテネ五輪から北京五輪までの4年間、北島選手はどん底でした。五輪での2つの金メダル獲得でバーンアウト(燃え尽き症候群)に陥り、なかなか目標設定ができずに過ごしていたのです。100パーセントの気持ちが入っていない中で練習をしていた北島選手は、多くのけがや病気に悩まされました。苦しかったことでしょう。スポーツ選手にとって、目標を見失うことほどつらいものはありません。この4年間は、今までの中で一番苦しい時期でした。しかし北島選手は、どんなに苦しくつらい状況でも、戦いから決して逃げませんでした。苦しさを耐え忍んできた期間は、北島選手の心を一段と強く成長させました。

平井コーチとの、きずなでつかんだメダル

 そんな北島選手に、転機が訪れたのは昨年のこと。それは、平井コーチの誕生日での出来事でした。同席していた私の前で、平井コーチは一瞬、ドキッとする言葉を発したのです。
「康介もつらいだろうけど、俺もつらいんだぞ」
 私は、このときの北島選手の顔を忘れられません。照れたような、そしてうれしそうな表情。平井コーチの言葉が、「一緒に悩んで苦しんでくれているんだ! 気持ちはいつも一緒なんだ! 一人じゃないんだ!」と北島選手の心に変化を与えたのです。それは、二人の新しいきずなが生まれた瞬間でした。平井コーチは後に、「この日から、康介が狂ったように練習するようになった」と話してくれました。

 指導者との信頼関係、そしてその指導者の意見を率直に受け入れられる北島選手の素直さが今回、大きな困難を乗り越えられたパワーの源なのです。どんなことがあっても、最後まであきらめない二人の気持ちは、今回も発揮されました。これは、信頼関係があるからこそできる業です。

 決勝レースの北島選手の泳ぎは、準決勝での課題をすべて修正した、完ぺきな泳ぎでした。極限の緊張感の中でもリラックスし、伸びのあるきれいな、完成された泳ぎでした。ここまでの完ぺきな泳ぎ、そしてレースは、アテネ五輪以来と私は感じています。
 北島選手が北京五輪に臨む際、「焦らない」「惑わされない」と話していました。何があっても、焦らず、落ち着いて自分自身を分析し、修正する素晴らしさ。そして、どんな強い選手が出てきても惑わされない心の強さが、今回の完ぺきな泳ぎ、世界記録での金メダルという快挙につながりました。

 北島選手の覚悟と勇気――12日から予選が始まる200mでも、きっと見ることができるでしょう。

<了>
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著者プロフィール

2000年シドニー五輪200メートル背泳ぎ4位入賞。「ハギトモ」の愛称で親しまれ、現在でも4×100メートルフリーリレー、100メートル個人メドレー短水路の日本記録を保持しているオールラウンドスイマー。現在は、山梨学院カレッジスポーツセンター研究員を務めるかたわら、水泳解説や水泳指導のため、全国を駆け回る日々を続けている

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