36歳の朝原宣治「正真正銘の最後になる」=陸上
陸上の日本選手権男子100m決勝。雨脚が強まったトラックを朝原のスパイクが捕らえていく。加速に乗った中盤、体一つ抜け出した。衰えのない強さが雨粒をはじき返す。だが、若武者・塚原直貴(富士通)が追い込んできて、パワフルに朝原を逆転。勝負強さを発揮して、3連覇をもぎ取った。
朝原は「予選と準決勝にないスタートができ、抑えたらよかったんですけど、全開でいってしまいました。中盤から体が浮いていましたね」と、自らを分析。10秒37(−0.2)で2位となったが、今年の4月29日の織田記念で10秒17と五輪参加標準記録A(10秒21)を突破しており、レース翌日の日本陸連臨時理事会で当然のように代表に選出された。
五輪は1996年のアトランタ以来4度目。陸上では最多回数に並んだ。レース後、記者に囲まれた朝原は「五輪はいつも夢の舞台で、楽しいイメージがある。今度こそ正真正銘の最後になると思うので、楽しんで走りたい。毎回言っていますが、100mはファイナリスト、400mリレーではメダルを取りたいですね」と、競技人生のクライマックスを華々しく飾る決意を話してくれた。
「後悔したくない」家族のプッシュで現役続行
そして迎えた勝負の準決勝。長居陸上競技場は朝原のためにあった。万雷の拍手と歓声。これまでで一番幸せなスタートラインだった。決勝進出はならなかったが、誰もがエースの走りを胸に刻み込んだ。
400mリレーは定位置の4走。38秒03の日本新記録そしてアジア新をマークしたが、メダルには届かず5位。しかし朝原は戦いきった。リレーメンバーがミックスゾーンを引き上げるとき、末續慎吾(ミズノ)や塚原(当時東海大)は「(引退を)引き止めないと」と話していた。
あの世界選手権で燃え尽きたつもりだったが、どこかすっきりしない。何より体が動く。走ることが楽しい。自分でも意外な気持ちだったかもしれない。だから妻・史子さんに相談した。
「後悔しないようにやってみたら」。背中をポンと押してくれる言葉が返ってきた。92年バルセロナ五輪シンクロの銅メダリスト(ソロとデュエット)の妻のひと言が北京挑戦を決定づけた。進むか引くかの葛藤(かっとう)の中で、家族に囲まれながら、朝原はこの答えを感じ取っていたのかもしれない。
日本陸上界のヒーローとして北京のスタートラインへ
だが、誤算が1つあった。風邪だ。織田記念の前に引いた風邪が思いのほか厄介だった。練習を控えて治したが、体重が3キロほど落ち、トラックを蹴っても満足できる出力が得られないなどダメージを引きずった。
5月10日の国際グランプリ大阪は8位と完敗。「体が軽くて踏ん張りが利かない感じ。日本選手権では波を外さないようにしないと」と自らに言い聞かせていた。
5月22〜25日に北京で行われた五輪プレ大会中国オープンでも調子は上がらず、100mは2次予選敗退。400mリレーでは4走で不覚にも中国・四川省代表チームに0.01秒差で逆転負けを食らった。日本選手権まで1カ月。やると決めたからには、五輪切符をつかまなくてはならない。
「北京(プレ大会)以降、練習も食事もしっかり取って、体重もウエートの値も戻ってきました。(国際グランプリ)大阪ではゼロから30、40mまで出力を上げようとするときに出なくて、そこを出すような練習をしてきました」と朝原。「昨年の体と今の体は確実に違う」とも話し、“らしくない”走りが続いていただけに、日本選手権に向けて準備を整えたつもりでも、どこか自分でもつかみきれない部分があったのだ。
日本選手権では塚原に0.06秒差で敗れて2位。それでも「感触は10秒2台後半かな。優勝できなかったのは残念ですけど、2番で(家族みんなは)ホッとしているんじゃないでしょうか」。一家でまた熱い夏を迎えられる安堵(あんど)感があった。
アテネ五輪のとき、長女は1歳。大阪の世界選手権のとき、長男は1歳。それぞれ記憶はおぼろだろう。北京五輪では長女は5歳、長男は2歳になっている。子どもたちの目と記憶にパパの雄姿がくっきりと焼き付くだろう。
兵庫・夢野台高校から陸上競技の道を20年。北京で朝原はどんなクライマックスを迎えるのだろう。一世一代の歴史的なレースを演じるかもしれないし、はね返されるかもしれない。ただ言えることは、朝原は真の完全燃焼を求めて走るということだ。400mリレーでは末續や塚原、高平慎士(富士通)が朝原の特別な求心力の下に結束する。今から高揚感があふれて、待ち遠しい。
日本陸上の大黒柱として、家族みんなのヒーローとして、朝原の大きな決意と誇りを込めた物語が始まろうとしている。
<了>
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