語り継がれる“黄金のサウスポー”=MLB名人物ファイル
転機となった1961年のキャンプ
マイヤーズはコーファックスがボールをリリースする際、あごが上がって視線がホームプレートから離れる癖を矯正し、シェリーは「常に100パーセントの全力投球でなく、もっと肩の力を抜いて、カーブやチェンジアップを交えたらどうか」とのアドバイスを与えた。
右足を高々と上げ、188cmの長身を生かした上手投げのフォームから、時速90マイル台後半(約150キロ以上)の速球を投げ込むかと思えば、打者の目の前で天井から落ちてくるように急激に変化するカーブ、低めのストライクゾーンにもぐりこむようなチェンジアップ……。主な球種はこの3つだったが、いずれも超一級品へと磨きをかけたコーファックスは、61年に18勝、リーグ1位の269奪三振と躍進を遂げた。63年には初のノーヒッターを記録するなど25勝、306奪三振、防御率1.88を記録し、投手三冠に輝くとともに、初のサイ・ヤング賞とMVPをダブル受賞した。ワールドシリーズ第1戦では、ミッキー・マントル、ロジャー・マリスの「MM砲」を擁するヤンキース相手に1試合15奪三振のシリーズ新記録(当時)を達成し、ここでもMVPに輝いている。
65年は26勝、メジャー新記録(当時)の382奪三振に加え、4度目のノーヒッターを完全試合で達成し、2度目の投手三冠とサイ・ヤング賞を獲得した。
当時、パイレーツの主砲だったスタージェルはコーファックスとの対戦について「ヤツの球を打つのはフォークでコーヒーをすくって飲むようなもの」とその難攻不落ぶりを表現した。また65年のワールドシリーズで対戦したトニー・オリバ(ツインズ)は、新人の年から2年連続首位打者に輝いたほどの好打者だったが、コーファックスが5球続けて投げたストレートに手も足も出ず、シリーズ後、眼科医のもとに直行した。その診断結果は「君の目はどこも悪くない。むしろチーム一の視力の持ち主だよ」というものだった。つまりそれほどの動体視力の持ち主でも、コーファックスのスピードには成す術がなかったのである。実際、彼の登板する試合は普段よりも1万人以上、観客が増えたという。
一方で、持病の左ひじは年々悪化の一途をたどった。登板前には痛みどめのコーチゾン注射が欠かせなくなり、現在、試合後にほとんどの投手が施している肩やひじへのアイシングもこの時期にコーファックスが始めたものだった。
初の代理人交渉
66年、コーファックスはこの年、自己最多の27勝、防御率1.73、317奪三振で2年連続3度目の投手三冠とサイ・ヤング賞に輝く。しかしオリオールズとの対決となったワールドシリーズでは、第2戦に先発しながらつきにも見放されて6回4失点で敗戦投手となり、これを最後に二度とメジャーのマウンドに立つことはなかった。
シーズン終了後の11月15日、コーファックスは故障の悪化のため、31歳の誕生日を約1カ月後に控えた若さで現役引退を発表。実働12年間の通算成績は165勝87敗、防御率2.76を誇った。72年には史上最年少の36歳で殿堂入りを果たし、背番号「32」はドジャースの永久欠番に指定されている。
もし、これほどの左腕投手が、今のメジャーリーグで現役だったら、オーナーはいったいどれだけの条件を用意して交渉に臨むのだろうか。サンタナ、いやアレックス・ロドリゲスに匹敵するサラリーに、球団の経営権、あるいは球場の命名権収入の何割かを最低でも提供する覚悟で交渉に臨まなければならないはずだ。だが、その投資を大部分のファンは納得するに違いない。
<了>