米国男子体操代表・ハム「目標は金メダル」

及川彩子

アテネ五輪後、2年半の休養期間を

「梁(韓国)にとっても、僕にとっても、アテネで起こったことは、とても残念なことだった」
 今でもアテネ五輪のことを聞かれると、ポール・ハムは少しうつむき、言葉を選びながら答える。
 4年前のアテネ五輪、体操男子個人総合で、ハムは米国人として初の男子個人総合金メダリストとなった。表彰台の上では、ハムの喜びに溢れる表情が映し出され、体操ファンの多い米国は大いに沸いた。
 喜びは長く続かなかった。銅メダルに終わった梁泰栄(韓国)の平行棒の試技に対する審判の採点ミスが発覚。ハムには非がなかったが、韓国メディアを中心にハムは一躍、悪のヒーローのように扱われ、激しいバッシングを受けた。

「メダルを返還すべき」
「米国選手だからひいきされた」

などという言葉が連日、新聞やウェブサイトなどで飛び交った。

 当時21歳だったハムは、アテネ五輪後、学業を優先させたいという理由で体操から離れている。2004年の夏から2年半もの間、ハムは一切、競技会に出場していない。大学を卒業するためだけではなく、自分を取り巻く環境から離れたかったのでは、とも考えられる。
「大学の単位を早く取りたかったので、クォーター(4学期制)で18〜20単位くらいとった。フットボールの試合を見に行ったり、友達と遊んだり、普通の学生生活を楽しんだ。オリンピックのストレスから解放されて、一学生として過ごせてよかった」

 2年半、学生生活をエンジョイしたハムは、昨夏、オハイオ州立大学を卒業すると同時に、本格的に体操に復帰。復帰を決めたのは、アテネから丸2年経った、06年10月のことだった。
「(双子の兄弟の)モーガンと今後のことをひざを突き合わせて話し合ったんだ。アテネの後は、競技に戻ることは考えていなかったから。でも、僕らはまだ、肉体的なピークを迎えていないし、スポーツでもっと証明することがあるという結論に至って、体操に戻ることを決めた」
 とはいえ、2年間のブランクは予想以上に大きかった。
「練習に戻ったばかりの頃は、本当にきつかった。毎日、練習に行かなきゃいけないし、筋肉痛になるし(笑)。学生生活とは天地ほど違うから」

「タイソン・アメリカカップ」で優勝、そして北京へ

 復帰初戦となった昨夏のビザチャンピオンシップでは、床とあん馬の2種目のみにエントリー。「鉄棒などは練習を再開するのが遅かった」と話すように、復帰はしたものの6種目をフルに戦える状態にはなかった。しかし、天性の才能と強い精神力、そして日々の猛練習で、徐々に本来の動きを取り戻し、今年2月の国内グランプリ大会で総合優勝し、復帰2戦目を飾った。
 そして北京五輪まで半年をきった3月には「タイソン・アメリカカップ」に出場。試合前に、「昨秋の世界選手権でメダルを獲ったドイツ、中国、日本の選手が集まったので、自分の今のポジションを確認するのは絶好の機会。自分の力を証明したい」とリラックスした表情で話していた。試合では大技こそ見せなかったが、各種目ごとに丁寧な動きでほかの選手を終始リードし優勝を飾って、6月に行われる五輪選考会、そして北京五輪に向けて弾みをつけた。

「北京で個人総合で金メダルをとれたら、すごいことだけど、その前にまず米国が団体戦でメダルを取れるように貢献したい」

 アテネ五輪で採点ミスによる『金メダル』を巡る狂想曲に巻き込まれ、「精神的に本当にきつかった」と話すが、「そのおかげで強くなったような気がする」とも言う。アテネで本来、金メダルを受け取るはずだった梁(韓国)とは、その後、会話するきっかけがないが、「言葉の壁があるので、会話ができないけれど、もし話をする機会があったら、『彼にとっても、そして僕にとっても、とても残念な出来事だった』と伝えたい。そして、北京で戦えることを楽しみにしている」

 誰もが夢見てやまない五輪の金メダルを、不本意な状況で受け取り、バッシングを受けたハム。だが、彼はそういった状況に屈さず、逆にそれをバネにして一回りもふた回りも成長した。最大の目標である北京五輪での金メダルを目標に、ハムの挑戦は続く。
 

<了>
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著者プロフィール

米国、ニューヨーク在住スポーツライター。五輪スポーツを中心に取材活動を行っている。(Twitter: @AyakoOikawa)

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