「捨てられた甲子園の土」を乗り越えて――戦後70年、沖縄の高校野球が刻んだ歩み
首里高ナインによる小さくて大きな一歩
1958年、戦前、戦後を通じ沖縄初の代表となった首里高。開会式では仲宗根主将が選手宣誓を行った 【写真は共同】
58年の夏、沖縄予選は熱気を帯びていた。夏の甲子園40回大会を記念し、各都道府県1校の出場が決まった。当時、東九州大会で鹿児島や宮崎代表の壁に阻まれていた沖縄にも道が開かれた。
その年の春、日本高校野球連盟の佐伯達夫副会長(故人)が沖縄の球児4人を選抜大会に招き、「夏は沖縄も出場する。4人の誰かが勝ち抜いてこい」と告げた。その中に首里高の仲宗根弘主将もいた。沖縄に戻った仲宗根から吉報を聞いた左翼手の山口辰次は「夏に勝てば甲子園に行けるぞと、みんな練習にも熱が入った」と振り返る。
首里高ナインの大半は身長160センチそこそこ。「かつてないほど小粒」と評された。本命ではなかったが、準決勝で2年生の栽弘義(故人、後の沖縄水産高監督)を擁した糸満を8対6の接戦で破り、決勝では石川高の好投手、石川善一を打ち崩して甲子園切符を手にした。山口はトラックの荷台に乗って、那覇市の国際通りをパレードしたときの高揚感を今も覚えている。
パスポート持参で臨んだ甲子園
「外国」の本土に行くにはパスポートが必要だった。予防接種までして、首里高ナインは出発し、船で一昼夜かけて鹿児島へ。鴨池球場で練習したときは、船酔いでグラグラと体が揺れているような感覚。外野手はフェンス際で、クッションボールのはね方を入念に確認した。
当時、沖縄にはスタンドのある球場がなかった。予選会場に使われた那覇高グラウンドでは、外野に白線を引いて観客席と区別。ゴロで越えたら二塁打で、三塁打が出なかった。施設面の格差を補うための、急ごしらえの練習だった。
初戦は大会2日目の8月9日、福井県の敦賀高に決まった。
「恥ずかしくない試合をしてくれればいい」
「全力を尽くせば勝負は二の次」
14度目の出場となる相手を前に、県民の多くはそう考えていたが、山口の思いは違った。
「板東英二投手のいる徳島商高は避けたかった。敦賀も同じ高校生。勝つつもりでしたよ」
結果は3安打と封じられ、0対3の完封負け。3番を任された山口は無安打に終わった。沖縄予選で好調だっただけに、打てなかったことが悔しかった。それでも、高校の硬くて石だらけのグラウンドとは雲泥の軟らかい黒土、スタンドの広さ、割れんばかりの大歓声に感動した。
「招待された大会でボロ負けせず、いい試合ができた。野球をやっていて良かったと思いました」