「捨てられた甲子園の土」を乗り越えて――戦後70年、沖縄の高校野球が刻んだ歩み

熱狂の後に起きた悲しい「事件」

日本航空の客室乗務員が贈った甲子園の小石。「友愛の碑」として校内に飾られている 【写真は共同】

 沖縄も沸いた。琉球放送が国際無線電話を利用して、試合の模様を中継。当時の沖縄タイムス紙は「ラジオ囲み一喜一憂」の見出しで、「各職場や家庭ではラジオを取り囲んで刻一刻と流れてくる試合の模様に耳を傾けていた。那覇市内のラジオ店はどこもかしこも黒山の人だかり、首里高チームの奮戦ぶりを見守っていた」と熱狂ぶりを伝えている。

 選抜大会に招待された球児の1人で、沖縄予選で敗退したコザ高主将の安里嗣則も、畑仕事を手伝いながらラジオの実況に聞き入っていた。春の甲子園で本土チームのレベルの高さを目の当たりにした。

「帽子のかぶり方、ユニホームの着こなし、何もかも違って見えた。(王貞治選手の)早稲田実業高のスイングの速さ、バントのうまさに驚いた。当時の沖縄のチームは二塁からワンヒットで三塁までしか行けなかった。走塁のレベルから違った」

 だからこそ首里高の善戦が誇らしかった。

「10点以上取られると覚悟していたから、勝ったような気分だった」

 ところが、首里高ナインが那覇港に戻ったとき、「事件」が起きる。

 持ち帰った甲子園の土が植物防疫法で「外国の土」と見なされ、海へと捨てられた。山口もユニホームの後ろポケットいっぱいに詰め、集めた土をあきらめなければならなかった。
 福原朝悦監督(故人)は当時の心境について、「選手にとっては大事な思い出の土。つらかった」と語っている。米軍統治下の沖縄を象徴するような出来事に、心を痛めた日本航空の客室乗務員が贈った甲子園の小石は、「友愛の碑」として今でも校内に飾られている。

大輪の花が咲いた沖縄の高校野球

2010年に春夏連覇を達成した興南高。首里高が初出場した際は本土チームとの実力差に気後れしていたが、その時代は過去になった 【写真は共同】

 57年前、首里高がまいた小さな種は、関係者の努力と執念によって、強い根を張っていく。後に県高校野球連盟の会長を務めた福原は、このときに本土の関係者から言われた「沖縄は自分で考え、ハンディを乗り越えなければならない」との言葉を胸に刻んだ。

 甲子園に選手で行けなかった栽と安里は、本土の大学で指導法を学び、沖縄へ戻った。栽は70年代に豊見城高を甲子園の常連校に育て上げ、90、91年には沖縄水産高で夏連続準優勝を果たす。安里は栽とコンビを組み、県高野連の技術強化を担当した。本土の強豪校を沖縄に招待し、沖縄の指導者を本土に派遣した。体力強化のため、冬場に野球部対抗競技会を開き、塁間走や遠投、100メートル走、立ち三段跳びなどを競わせた。本土復帰翌年の73年から始まった独自の取り組みは、今年で43回目を数える。

 戦後、ゼロから再出発した沖縄の高校野球。1999年春には沖縄尚学高が選抜初優勝し、2010年には興南高が史上6校目の春夏連覇を成し遂げ、大輪の花を咲かせた。本土チームとの実力差に気後れしていた時代は、過去になった。
 那覇市の自宅でテレビ観戦していた福原は「甲子園に出ては負け、出てはたたかれ、どうしたら強くなるか試行錯誤だった。いつか、この日が来ると信じていた。半世紀の積み重ねが実った」と泣いた。

 戦後70年の今年、どんな花が咲くのだろうか。

(敬称略)

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著者プロフィール

沖縄タイムス社運動部記者。1973年、名古屋市出身。奈良女子大学卒業後、96年に入社し、社会部、学芸部、整理部などを経て、2008年から10年まで運動部。興南高の甲子園春夏連覇などを取材。

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