元スカウトが見た清宮幸太郎の実力 「松井秀喜以上、左のブランコ」の衝撃

週刊ベースボールONLINE

関東一高との都大会準々決勝、公式戦13打席目にして高校初本塁打。打棒には中村氏も太鼓判を押す 【写真=BBM】

 高校野球ファン、メディアを含め、注目の的となっている早稲田実業高の1年生・清宮幸太郎。ドラフト対象は2年後だが、すでにネット裏のスカウトは鼻息を荒くしている。今回は「怪物」と認める1人である元巨人チーフスカウト・中村和久氏に、スーパー1年生の実力を解説してもらった。

先天的なセンスが感じられる

 これが入学間もない1年生とは、目を疑うしかなかった。あぜんとしたのが、率直な第一印象である。

 打ちに行かない、高校生では珍しいタイプだ。体が突っ込まない、と表現した方が分かりやすいだろうか。プロレベルでもそうだが、「打とう」という気持ちが強いほど、上体が前へ出てしまうものだ。だが、清宮選手の見送り方には先天的なセンスを感じた。

 ベルトのラインと地面が平行で、腰の回転(軸回転)で打つことができるからだ。フォロースルーが大きく、俗に言うレベルスイング。左の腰が下がることがない。打つ前にバットを立て、始動が早く、リラックスした状態からスムーズにバットが出てくる。大柄な体格にもかかわらず、スイング自体に柔らかさがあり、器用でバットに当てるのがうまい。

高い修正力、スケールは松井以上

 関東一高との春季東京都大会準々決勝では、修正能力の高さを見ることができた。第1、2打席は外のコースを打ち上げるライトフライ。右足を踏む込む際、爪先がやや開く傾向にあり、結果的に右膝が伸びてしまう。ミート力とパワーに長けているから、結果的に小笠原(道大、現中日)のようにうまくボールを拾うことができた。

 しかし、この2打席は引っ張り気味だった。すでに持っている上体の強さに加え、下半身をもっと柔らかく使い、外のコースはしっかり踏み込んで、左中間、センターへ運ぶのが理想。すなわち、ボールに逆らわず、コースによってのポイントを覚える必要性を感じたが、第3打席でしっかり“学習”してきたのには驚いた。

 2点を追う1死二、三塁。初球、変化球のつり球に引っかからない冷静さ。そして、カウント1ボールからの2球目、内角寄りの真っすぐを中堅越えへと鮮やかに運んだ。一時逆転となる3ラン。確かにコースは甘かったが、1球で仕留められるものではない。この打席では“謙虚に”センター返しを心掛けていた。前述の課題として挙げた「コースに逆らわない打撃」をすぐに、実践してみせたのだ。

 あそこの打球が伸びていく弾道は正直、松井(秀喜)以上のスケールを感じた。完全にホームランの孤を描き、上がってからの打球がグンと伸びていく。あまりの衝撃性で言えば「左のブランコ(オリックス)」と表現した方が分かりやすいかもしれない。

外国人と対等にポジション争いができる

守備では一、二塁間の打球処理など、発展途上の部分がまだ見受けられる 【写真=BBM】

 一方、一塁の守備は一塁線へのゴロは素直にファーストミットが出せるものの、一、二塁間への対応にはまだ甘さが残る。一歩目のスタートを意識して、正面に入ることが必要。スコアブック上で「3−2−3」「3−6−3」の間一髪の併殺プレーにおいては、送球がブレる危険性がある。下半身強化と並行し、フットワークのスピードアップに取り組めば、解消される分野だと思われる。

 2年後のドラフト対象として、「一塁手専任」というのは、一般的に敬遠される傾向がある。つまり、毎年のように外国人選手とのポジション争いが待っているからだ。しかし、彼の場合は前例が当てはまらない。これだけのスイング力があれば十分、助っ人とも対等の勝負ができるだろう。

中村 和久(なかむら かずひさ)

1947年10月6日生まれ。三重県出身。高田高から名古屋商科大へ進み、70年にリッカーへ入社して都市対抗2度出場。74年限りで引退後はマネジャー、コーチ、部長代理を経て82年に監督就任。元阪神・中西清起らを育て、84年にチームが活動停止。85年に巨人スカウトへ転じ、87年から9年間は近畿・中国地区を担当、06年から4年間は球団代表直属チーフスカウトに。岡島秀樹、元木大介、橋本清、高橋尚成、阿部慎之助、野間口貴彦、亀井善行、山口鉄也、金刃憲人、長野久義らの入団に尽力した。09年12月限りで巨人を退団し、ベースボールアナリストとして取材活動中。
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