「桜の樹の下には」◎武豊ベルカント=乗峯栄一の「競馬巴投げ!第70回」
「汚きわざ」ってどういう意味?
[写真1]ハープスターは桜花賞大本命間違いなし 【写真:乗峯栄一】
しかし問題はこの場合の「汚きわざ」だ。これってほんとにそういう意味だろうか。
「キタナーい」
「何がキタナいんだ、こんな神聖なものをつかまえて」
「だってキタナいんだもん」
「初めはみんなそう言うんだ、キタナーいってな。でもそのうちキタナーいけど、でも気持ちいいかもしんないとか、そう言うようになるんだ」
「ほんとう?」
「ほんとう?とか言いながら、お前、ちゃんと握りしめてるじゃないか、何だ、この手は、うーん?」
などとヒヒジイさんが若い女をつかまえて言うような、ぼくには“汚きわざ”とはそういうことにしか思えないのだが、それでいいんだろうか?
エロ本に出ていた言葉じゃない。エロ本も無慮大数読んできたが、エロ本じゃこんな文語調の言葉使いはしない。たぶん文学系の言葉だろう。文語を使う文学系の言葉で、“汚きわざ”とは「つまりあれですわ、大将。分かってはりまっしゃろ、汚きわざっちゅうたらあれしかおまへんがな、そうでっしゃろ」と出入りの小間物屋が呉服問屋の旦那に、関西弁で揉み手しながら言うような、そう意味なのかどうか、そこだ問題は。
汚きわざってのは、あれだよ、あれ汚いだろ?
[写真2]松田博厩舎もう1頭の有力馬レーヴデトワール 【写真:乗峯栄一】
ゲザはその顔うち守りて「恋とは」と問ひぬ。
老人は聲咳(せいがい)して「病なり、熱ある病なり。これを煩ふ人は美しき夢見て、きたなき業するものぞ」
ゲザというジプシーの血を引くバイオリンの天才がベルギーにいて、ドイツのステルニィという当代一の名ピアニストがこの少年の才能を見いだし、開花させる。しかしゲザの人気があまりに上がっていくことに嫉妬したステルニィはゲザの作った曲をわがものとして発表し、ゲザの婚約者アンネットに手をつけ、アンネットはこのことを悲観してブリュッセルのアパートの窓から身を投げて死ぬ。ゲザはステルニィの演奏会場に乗り込んで真相をただそうとするが、つまみ出され、それ以後、ゲザは酒におぼれ、パリ・モンマルトルの安宿で零落していくという、そういう話だ。
この話の冒頭、ゲザがジプシーの見せ物小屋でバイオリンを弾き、稼ぎ始めた9歳のとき、母親がゲザを見捨てて若い男と駆け落ちする。そのとき近所の老人に「お母さんを憎んじゃいけない、恋とはこういうものだ」と言われ、思わずゲザが「じゃあ恋ってのは何?」と聞き返したのが上記の場面だ。
とすれば、「きたなき業」とは“子供を置き去りにして男と駆け落ちすること”を意味しているように思える。しかしだ。これは全くの想像だが、シュビンの書いた原文では「卑怯な行い」とか「いけない行い」だったんじゃないだろうか、それを鴎外が「きたなき業」という言葉に強引にもっていったんじゃないだろうか。「“いけない行い”じゃ何か違うんだよなあ、“きたなき業”、そうだ、これがいい、これでいこう」と鴎外はひらめいたように思う。「ヰタ・セクスアリス」を書いた鴎外なんだから、そうあって欲しいという、これはぼくの願望でもある。
「恋という病を煩う人は、美しき夢見て汚きわざをする。汚きわざってのは、知ってるよね? あれだよ、あれ。あれ汚いだろ? みんな喜んで色んなことするけど、汚いからなあ、あれは」と鴎外はそう言いたかったのだ。