「桜の樹の下には」◎武豊ベルカント=乗峯栄一の「競馬巴投げ!第70回」
わたしは知る人ぞ知る交尾研究家である
[写真3]3戦無敗の2歳女王レッドリヴェール、追い切りの動きは良かった 【写真:乗峯栄一】
そうなのだ、何を隠そう、わたしは知る人ぞ知る交尾研究家である。
たとえばトコジラミ(いわゆる南京虫)だ。トコジラミのメスには生殖口がなく、発情期になるとオスはメスのじゃばらの腹にブスッとペニスを突き刺す。
「と、殿、何をなさるのです、何という粗暴なことを、あ、血、血があ」
しかしトコジラミのメスは出血している自分の腹を押さえてそんなことを言ったりはしない。トコジラミのメスには“スーパーマリッジ”(超結婚?)と呼ばれる器官があって、腹の傷はすぐに癒える。注入された精子は、血管からメスの体内貯蔵嚢(のう)に溜めこまれる。メスは体内で卵子を形成すると、その貯蔵嚢から精子を取り出し、必要に応じて必要なだけ受精する。
当たり前だが、トコジラミのメスにとって腹にペニスを刺されるのは予定の行動だ。「最近刺し傷少なくて寂しい」とトコジラミのメスは自分の腹さすって落ち込んだりする。「刺しなさいよ、意気地がないわねえ」と腹突き出してオスをけしかけたりもする。
オスは「恋だよなあ、恋」と言いつつ、もぞもぞと自分のペニスを出す。「恋だけどもね、恋は往々にして汚いことするんだよな」とオスがボソボソ言い訳してメスに寄っていく。「何でもいいから早くブスッときなさいよ、こっちは切羽詰まってんだから」とメスはぐいと腹を突き出す。
一瞬躊躇したトコジラミのオスはペニス握ったまま「恋とは?」と呟いてみる。どうにも聞いてみたくなる。メスは顔を上げ「何?」と聞き返す。
「じゃあ、恋って一体何なんだ?」とオスは今度は顔を上げてはっきり言う。
メスは自分のじゃばらの腹をさすりながら「ふふふふふ」と含み笑いする。
「美しきことを夢見て」と叫ぶと、自分の腹を突き出してオスのペニスに突進させ、ブスリと突き立てさせる。「きたなき業をするものよー!」と再び断末魔のような叫びを上げ、自分の腹をぐりぐり回す。
「恋とはね、恋とはね、美しき夢見て汚きわざを、うーん、ほら! するものなのよ、でもわざは汚いからいいの、美しい夢と汚いわざは、これは正反対、ギブアンドテイク、マッチポンプ、うーん、月とスッポン、もう何でもいいの、そんな真逆に思えるのが、これがどっちもいいのよお、美しい夢もいいけどね、うーん、ほら、ハイ! 汚いわざがこれまたいいのよお」
トコジラミのメスは自分の腹を回しながら叫び続ける。
2分後、トコジラミのメスはかすかに出血している自分の腹を撫でて放心し、余韻に浸ることになる。
桜に対比出来る一番汚いものは交尾だ
[写真4]チューリップ賞でいい粘りを見せた松山弘平とリラヴァティ、本番でも一発あるか 【写真:乗峯栄一】
おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。
馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛してうじが湧き、堪たまらなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根はどんらんな蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根をあつめて、その液体を吸っている。
何があんな花弁を作り、何があんなメシベを作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。
などと、梶井基次郎の文章は続く。でもダメだ。「どうだ、いいこと言ってるだろう」という思わせぶりがちらつく。なぜそうなるか。桜というきれいなものの対比として屍体を持ってきて「屍体ほど汚いものはないだろう」と言っているからだ。間違いだ。桜に対比出来る一番汚いものは屍体ではなく、交尾だ。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている」が「恋とは美しき夢見て汚きわざをするものぞかし」に及ばないのはその点だ。