投手陣からケガ人がいなくなり、かつ自己最高球速を次々と更新していく――。

そんな理想の環境を社会人野球のJFE東日本がつくり上げたのは2022年12月、投手コーチに就任した荻野忠寛の第一声が始まりだった。

「とにかく自分の幸せのためにやってくれ。自分の成長のために全部の時間を使ってくれ」

JFE東日本は2019年に都市対抗野球を初優勝した強豪だ。

かたや、荻野は日立製作所を経て2006年大学生・社会人ドラフト4巡目で千葉ロッテマリーンズに入団。1年目からセットアッパー、クローザーとして活躍した。

当時の監督がアメリカ人のボビー・バレンタインで、荻野はプロ入り直後から多大な影響を受けた。

「僕がプロに入ったとき、ボビーは『チームが勝つことより、個人の幸せが大事だ』と話していました。『どんなにチームが勝とうと、荻野の体が壊れたらその勝利には何の価値もない』と。
どのカテゴリーより勝利が求められるプロ野球でボビーのやり方ができるなら、アマチュアはもっと追求しなければいけないというのが僕のベースにあります」

日本では伝統的に「組織のために個人がある」という考え方のチームが少なくない。

対して、アメリカのように個人の幸せを最優先すると選手はどう伸びて、それがチームにどう還元されるのか。荻野は自身の体験からこう考えている。

「全員のモチベーションが高くなるということです。選手たちはもともと野球が好きでやっているはずだけど、何らかの理由でモチベーションが下がったり、失ったりする場合もある。
でも本来、野球は自分が好きでやっていること。うまくなれば、もっと楽しくなって自ら取り組む。そうやってモチベーションを最大化するようにJFEの投手陣は取り組んでいます」

落合成紀監督から練習指導と試合中の起用の全権を任された荻野は就任初日、「JFE東日本ピッチャーの心得」と題した資料を配布した。

ワード1ページ分のシートには3つの項目が書かれている。一つ目は「人権と尊厳」だ。

【人権と尊厳】
人権
⚫︎ 人が人として社会の中で自由に考え自由に行動し幸福に暮らせる権利
⚫︎ 幸せに生きる権利
　➢ 自分の幸せを優先する
　➢ どうなることが幸せか考え、それを目指す
　➢ 人の幸せを阻害する権利はない

尊厳
⚫︎その人の体面を貶（おとし）めず、名誉や自尊心を傷つけない
⚫︎個人の存在や価値観、生き方、考え、意見、などを尊重する
　➢ 自分を大切にする
　➢同じように他人を大切にする

ポイントは、人権と尊厳がセットになっていることだ。荻野が説明する。

「簡単に言えば人権は『幸せに生きる権利』で、自分はどうなることが幸せかをしっかり考えることがスタート。例えばJFEのピッチャーたちは半分くらいプロを目指していますが、彼らにはプロになることを追求しなければいけない」

「同時に言い続けているのが、『人の幸せを阻害する権利はない』。例えばチームで『絶対勝つぞ』と言うのもそうです。勝つことが幸せという人もいれば、プロになることが幸せという人もいる。『絶対勝つぞ』を全員に押し付けたら、プロになりたい人の幸せを奪うことになります」

荻野自身、プロ入り前の社会人野球時代に「行けるところまで行け」と無理を押して投げさせられた経験がある。チームの勝利には必要だったかもしれないが、プロを目指す荻野は健康面でリスクを背負わされた。

どうすれば、個人とチームの幸せを一致させられるか。あらゆる組織における究極のこのテーマは、「人権と尊厳」の両立が肝になる。荻野が続ける。

「チームには『勝つことが幸せだ』という人もいるから、プロを目指している選手もその人の権利を阻害しないように、勝つためにも取り組まなければならない。つまり『人権と尊厳』を深く理解しないと両立できません。
尊厳をわかりやすく言えば、『大切にする』こと。自分のことも大切にし、同じように周りの人を大切にする。これを全員目指すことが、JFEの取り組みのすべてだと思っています」

荻野は就任初日の投手ミーティングで「人権と尊厳」について話した後、「野球選手として幸せに感じられないのはどんなとき？」と個別に尋ねて回った。

それは大きく3つに分けられる。


（1）プレーできないとき
　→ケガや故障をすると試合に出場できないので、幸せに感じられない

（2）自由を奪われたとき
　→やりたくない練習を強制的にやらされると、自由が奪われて不幸に感じる

（3）理想と現実が離れているとき
　→投げたい球を投げられない、プロになりたいのになれないなど、自分の理想と現実が離れていると幸福ではない


以上の3点に陥らないために、まず重要になるのは「怪我・故障から身体を守る」ことだ。これが「JFE東日本ピッチャーの心得」の二つ目に書かれている。


【怪我・故障から身体を守る】

⚫︎試合で結果が出ないことよりも試合に投げられないことの方が悪

怪我・故障を防ぐためには
　➢ 自分を知る
　➢ 肩肘に負担の少ないフォームの追求
　➢ 準備を習慣化する→1週間、1日、練習前・試合前、投球前、投球後（次の試合に向けた準備）
　➢ 身体の変化に気をつける → 体重は月に1%以内の変化にとどめる


JFE東日本では投手にケガを発生させないように、投球数の管理を徹底している。ある意味（2）と反するが、指導者にとって安全配慮は「義務」だ。

だからこそ負荷と球数の管理は徹底する一方、「自由」を与える。練習やトレーニングのメニューは、選手自身がすべて決めるのだ。


「荻野さん」。JFE東日本の練習初日にグラウンドへ出ると、一人の投手から呼び止められてノックバットを渡された。全員でフィールディング練習を行った後、荻野は選手たちに伝えた。

「この練習は今日で最後にしよう。やりたかったら、個人的に言ってきてくれ。チームとしてやる必要はない。やりたくないヤツもいっぱいいるから」

2023年シーズン、JFE東日本は投手陣の守備練習を1度もしなかったが、試合で失点に絡んだミスはバント守備の1回と暴投の2回のみだった。その一方、チーム防御率は2点ほど改善されたという。

「プロに行きたいなら、とにかくバッターを抑える能力が必要。今はデータがとられているので、球速や変化球の能力がないとプロに行けません。バッターを抑える能力を身につけるのは相当難しいので、『24時間全部の時間を注ぎ込んで自分のパフォーマンスを上げることに専念してくれ』と伝えています」

24時間全部というのは、決して大袈裟な表現ではない。
投手陣に課す「回復するまで投げるな」というルールが、その意味をよく表している。

JFE東日本投手陣で重視されるのは「質」と「量」の使い分けだ。

一般的に「質」と言えば、練習の強度や集中力を指すだろう。対して「量」は、練習の時間や日数、走る本数などを表す。

だが、JFE東日本では「真逆にしている」と荻野は言う。

「試合でのピッチングは、投げるという行為のなかでは『質が高い』ですよね。重い重量のウエイトトレーニングはより集中して行うので、『質が高い』。つまり質が高いとは、体に負担がかかるということです。

JFE東日本で言う質は、『体を鍛える』こと。少ない反復でいかに張りをつくるか。『ピッチングや強く投げるときは、都市対抗での1球と同じと思って投げてくれ』と言っています。一番わかりやすいのが球速なので、ブルペンでも常に計測しています。『投球フォームを気にせず、スピードだけを考えて思い切り投げてくれ』と」


対して、「量」はどうなるのか。

「量は『技術練習』です。質の日はフォームを無視してやるけど、僕はフォームをすごく重視しているので、量の日は『いいフォームをつくるためにやってくれ』と。反復が必要なので、棒を振ったり、サッカーボールを投げたり、ネットスローやシャドーピッチングをしたり、負荷を下げていろんなドリルを行います。

負荷を落とせるだけ落として、とにかく数をやる。『質の日に投げた100倍くらいの量をやってくれ』と話しています。それくらいやらないとフォームはできないので」


ここで大事になるのは、回復のプロセスだ。プロの先発投手でも中6日の登板間隔を空けるほど、投手にとって回復は一定の時間を要す。

自分は回復するのにどれくらいの期間が必要なのか。それを把握するために使用するのが「ONE TAP SPORTS」（ワンタップスポーツ）だ。荻野が説明する。


「このくらいの球数を投げたらどのくらい疲労して、どれくらいで回復するかを毎日アプリに入力していきます。例えば、試合のように大きい負荷をかけたら筋肉痛になりますよね。それを回復させている間に技術練習を行います。

ワンタップスポーツでは量も管理できるので、これくらいの張りがある場合、これ以上の量をやったら疲労回復しないと自分でわかるようにしていきます。

量をやっているときは回復するプロセスなので、その間に疲労が回復しなければ、量と負荷が適切ではない。しっかり回復させるレベルのなかで、とにかく反復してくれというのが『量』です」

（※ワンタップスポーツについてはHomebase内の連載で詳しく説明）

誰しも時間と体力には限りがある。だからこそ、適切に管理しながら最大の成果を求めていく必要がある。

その際に重要になるのが、「毎日自分と向き合ってベストを尽くす」ことだ。

例えば試合で先発した投手は翌日、どうするのがベストか。「明日は回復させることにベストを尽くしてくれ」と荻野は伝えている。

練習中、グラウンドに現れずに周囲を散歩している投手もいるが、彼らは疲労をとることに対して最善を求めているわけだ。

打たれた翌日、必死に走り込みや投げ込みを行っても「回復」という意味ではベストを尽くしているとは言えない。だからこそ、荻野は「頭を使え」と繰り返している。

「頭をちゃんと使えないと、ベストは尽くせません。質が高い日、つまり体に負荷をかける日は、自分の体を追い込むのにベストを尽くさないといけない。だから試合で投げた日、帰ってトレーニングをガッツリやるピッチャーがたくさんいます。
質が高い日に負荷を集中させて、次の日は回復にしっかりあてる。ピッチングとウエイトで追い込む日を別にすると、負荷がかかる日が二つになるので回復が非効率になるからです」

JFE東日本投手陣は1年間、こうした取り組みを繰り返してレベルアップを果たした。アマチュアのチームでは「強化期間」を設けて短期的に負荷のかかる練習やトレーニングを行うケースもあるが、それでは不十分というのが荻野の考えだ。

「強化期間しか体を鍛えられないなら、トータルではプラスになっていきません。強化を1、2週間しても、体は強くならない。1年中、もっと言えば何年もかけて体を強くしていくという考え方です」

自分の体をよく理解し、中期的な計画の下で強化を進めていく。それをピッチングのパフォーマンスアップにつなげるためには、社会人野球ならではの綿密な登板計画もある。（敬称略）


※次回に続く

（文・中島大輔）