杉本博昭 ~やりきった男の矜持~ part.2
転機となったアキレス腱断裂
2012年12年11月19日の豊田自動織機シャトルズ戦。後方には立川理道の姿も見える 【クボタスピアーズ船橋・東京ベイ】
杉本のラグビー選手としてのキャリアも、順調に転がっていった。日本代表を見据えてウエイトトレーニングで筋量アップに励み、入団当初102kgだった体重は108kgに。ところが、2014年、練習中にアキレス腱を断裂。まさにこれからという時期に不運に見舞われ、戦線離脱を余儀なくされた。
その絶望感は鋭利な刃物となり、杉本の心を容赦なく切り刻んだ。「引退」という脅迫めいた響きが頭をかけめぐり、一時は闘うことすら諦めかけた。
「当時は『もう辞めよう』と思いました。でも手術後に、僕はどうやってここまできたのかを、改めて病室で考えたんです」
ラグビーとの出会い。支えてくれた家族。中学、高校、大学時代の仲間たちや恩師。同じ時代に同じ競技で同じ空気を共有したクボタスピアーズの同期たち。もし、どれか一つのピースが欠けていたら、俺はここにはいなかった。これで現役生活はおしまい? こんな人生で、いいのだろうか?
「そして次の日、(当時のヘッドコーチ)のトウタイ・ケフに電話をして、フッカーに転向したい旨を伝えたんです」
これまでのキャリアでスクラム最前列のフッカーを経験したことは一度もなかった。時系列は前後するが、実際に初めてスクラムを組んだときには恐怖を感じたという。だが、杉本の中には肉体改造したこともあり「フッカーならできるんじゃないか」と自信めいた思いもあった。また、高校時代から遊び感覚で練習していたスローイングの腕にも多少の覚えがあったことも背中を押した。
「これでダメなら、もう仕方がないと。そう楽観的にとらえていました」
「悲観的」ではなく、あくまで「楽観的」に。この決断が杉本を第二のラグビー人生に導くことになる。トップリーグ公式戦には2015年シーズン開幕節、東芝ブレイブルーパス戦で初キャップ。翌16年にはフラン・ルディケがヘッドコーチに就任。チームに新たな息吹が吹き込まれた。
「そこでフランから『フッカーは第4のバックロー(フランカー&ナンバーエイト)だ。ヒロにはバックローの機能を備えたフッカーになってほしい』と言われたんです。その助言がなければ、僕は(オーソドックスな)『ザ・フッカー』になっていたと思います。たまに『その身体でフッカーができるの?』と言われることがあったんですが、大変でしたけど『これが俺のスタンスだ』という(フッカーとしての)軸を作って突き進んでいきました」
デイン・コールズとの出会い
2013年1月20日、三菱重工相模原ダイナボアーズとの昇格戦 【クボタスピアーズ船橋・東京ベイ】
2015年と16年、スピアーズのフォワード選手たちは当時、デインが所属していたプロラグビーチーム、ハリケーンズの合宿に参加。実際にデインの技術に触れるとともに、それを動画に収めて、教科書として活用した。
「だから、デインには特別な感情がありました。今シーズン、彼が加入すると聞いたときは、めちゃくちゃ嬉しかったです。実際にデインにそのときの動画を見せたら、『今よりもちょっと若いな』って言いながら、すごく喜んでくれました」
事実、アキレス腱断裂から再デビュー戦までの道のりは平たんではなく、フッカーとして公式戦に出場するに至るまでには長い時間を要した。しかし、持ち前の「根拠のない自信」と大学時代に養われた「競争心」が、不安や迷いの類を忘却の彼方へと追いやった。
「僕の中には昔から変な自信があって、『このグラウンドで一番巧いのは俺や』という気持ちでいつも練習しているんです。(練習に合流したばかりの時期に)みんながグラウンドで15人対15人のアタック・ディフェンスをやっているとき、僕は隅のほうでまるで陸上部のように走ることしかできませんでした。そのときも、『グラウンドに出たら絶対にいいパフォーマンスをしてやる!』『絶対に誰にも負けない!』と心の中で思っていました」
休日はクラブハウスに通い、スローイングの自主練。課題だったコントロールの精度の向上に努めた。このスローイングのフォームは改善を重ね、毎シーズン変化を続けた。
マルコム・マークスに抱いた感情
2022年5月22日、プレーオフ準決勝戦の埼玉パナソニックワイルドナイツ戦でクボタスピアーズ公式戦出場100試合を達成 【クボタスピアーズ船橋・東京ベイ】
「彼のことはもともと知ってはいたんですが、実際に組んでみて『こいつ、めっちゃ強いな!』と思いました。試合後には一緒に写真を撮ってもらいました」
その彼こそが、世界最強フッカーの呼び声も高いマルコム・マークス。翌21年になると、なんとマルコムがクボタスピアーズに入団。彼がやってくるとなると、当然のことながらポジション争いがより激化し、それは杉本の活躍の場を奪うことにもつながりかねない。だが、鼻っ柱をへし折られるどころか、杉本はこの事態を好意的に受け止めた。
「よし、これでマルコムに教えてもらえる。そう思いました」
その無垢な楽天性の拠り所となっていたのが、持ち前の「根拠のない自信」。フッカー転向を決断したときもそう。これは決して自惚れの類ではなく、おそらくはシビアな「競争」の中で磨かれた、アスリートにとって大切な闘う者としての自尊心である。心の奥にギラギラしたものがあるからこそ、自身に進化を求める際に他者に頭を下げられる。なぜなら、人は知ることによってしか強くなれないから。
「当時は(マルコムが来たから)出番がなくなるんじゃないかって、よく言われたもんです。だから何なんだと。汚い表現になってしまいますが、俺のこと舐めているのかと、そういう感覚でした。(マルコムに)負けてられるかと、そういう気持ちでいました」
負けたくないから教えを乞う。杉本にとってそれは1ミリの矛盾もない、ごく自然な行為だった。
「そういう『負けてられるか!』というものが心にないと、試合に出られないです。僕は練習試合のゲームキャプテンを務めさせてもらったときは、みんなに『この試合で爪痕を残さないと、何のためにラグビーをやっているのか分からなくなるよ』って伝えています。みんな、クボタスピアーズに入団するまでは(大学ラグビーなどの)トップスターだったはずです。それが、入団したあとは『俺はBチームのままでいい』というのは、僕は違うと思います。これまでトップスターとしてラグビーをやってきたんだったら、入団してからももっとやろうと。みんながそういう気持ちになれば、チームは絶対に強くなります。たとえ試合に出られなくても、決して練習を疎かにしてはいけないんです」
自分一人の力だけでここまできたわけではない。だから、与えてもらった競技人生の時間を1秒も無駄にすることは許されない。練習日はクラブハウスに一番乗りして、グラウンドでより高いパフォーマンスが発揮できるよう身体のチューニングに努めた。2022年5月22日、プレーオフ準決勝戦の埼玉パナソニックワイルドナイツ戦でクボタスピアーズ公式戦出場100試合を達成。そして、翌2022-2023シーズンでは初のリーグワン優勝。ドラマの伏線は回収されつつあった。(つづく)
文:藤本かずまさ
写真:チームフォトグラファー 福島宏治
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