杉本博昭 ~やりきった男の矜持~ part.1
なぜ今、この時期に引退するのか
引退発表後の最初の試合になった2024年2月24日の花園近鉄ライナーズ戦。リザーブで後半の立ち上がりからゲームに入り、後半26分にはトライも 【クボタスピアーズ船橋・東京ベイ】
「確かに、そこまで大きな怪我をしているわけではないですし、試合にも出させていただいています。好きなことを仕事にできるのは、すごくありがたいことだと思うんです。35歳になりましたが、おそらくやろうと思えば40歳くらいまでは現役を続けられると思います。燃え尽きて引退するのも、一つの美学です。一方で、自分の好きなタイミングで辞められるのも、すごく幸せなことです。だから…、いろんな思いがあるのですが、今がちょうどいいタイミングなのかなと思います」
「タイミング」。引退を迎えたアスリートがよく口にする言葉である。もしかするとそれは闘い続けることによってのみもたらされる精神的な境地のようなものなのかもしれないが、杉本がたどってきた軌跡を振り返ってみると、その「タイミング」という言葉に集約された何かがおぼろげながら浮かび上がってくる――。
ラグビーなんて大嫌いだった少年時代
2月24日の花園近鉄ライナーズ戦にはご家族が応援に。左が「杉本三兄弟」長男の剛章さん 【クボタスピアーズ船橋・東京ベイ】
「小学校3年生の9歳のときです。兄貴もやってるからお前もやれ、という感じで、無理やり布施ラグビースクールの練習に行かされました。もう本当に嫌で、ずる休みしたくらいでした」
体温計の先端部分をこすり37度2分まで温度を上げて「熱があるから休ませて」という手法を編み出すも、同じ手が何度も大人に通用するわけもなく、母親はある奇策を講じて杉本をラグビーにつなぎとめた。
「1000円あげるから、練習の帰りに好きなものを買っていいと。それでランチパック、シーチキンマヨネーズのおにぎり、ポテトチップス、コーラを買って、家に帰ってトイストーリーとかジブリとかを観るのが好きになったんです」
しかし、そんな食生活を続けていると、上級生になるころには肥満児に。ラグビーの練習は何とか続けたものの、どうしても好きにはなれず、東生野中学校に進学するやバスケットボール部に仮入部。だが、体育館でスリーポイントシュートをやっていると、そこに現れたのがラグビー部の顧問の芦髙幸作先生だった。当時の東生野中学ラグビー部の空気というか、雰囲気というか、そういったものは「トンナマ ラグビー部」で検索すれば何となくお分かりいただけると思うが、このときの状況をマイルドに表現すると、杉本は先生にグラウンドまで案内され、「君がいるべき場所はここだよ」と諭され、結果、問答無用でラグビーに引き戻されたのだった。
杉本の心の中からラグビーに対する心の壁が取り払われたのが、この中学時代。1年生の間は、「血の味がするくらいまで」グラウンドを走らされたという。身体は一気にスリムになって、2年生になるとついに初キャップ。3年生にはキャプテンに就任。大阪市優勝、大阪府3位。小さな成功を積み上げ、顧問に褒められることに、杉本は喜びを覚えた。
「自分のメンタルの成長もあったと思うんですが、褒めてもらうことがすごく気持ちよくて、大嫌いだったラグビーが楽しくなってきたんです。それで、高校に入っても続けようと思いました」
高校、そして大学での経験と学び
「『組織』とはこういうものなんだ、ということを学べました。僕らのチームは、スローガンとして『協心』という言葉を掲げていました。『協力』の『協』に『心』で『きょうしん』です。高校時代の仲間とは、今でも『協力』でつながっています。LINEグループがあって、この年になっても『誕生日おめでとう』のメッセージを送り合っているんです。気持ち悪いですよね(苦笑)」
中学ではラグビーの楽しさを、そして高校ではチーム作りを。次に明治大学ラグビー部で学んだのが、組織内での「競争」だった。同期は田村優(横浜キャノンイーグルス)や三村勇飛丸(元・静岡ブルーレブズ)など個性の強い選手たち。先輩たちも後輩たちも、全国から集まった強豪選手たちばかり。そこは、ハードな競争原理が働くシビアな世界だった。
「高校までは試合に出られていたんですが、大学では(試合に出るために)熾烈な闘いがあります。『負けてられるか』『何クソ!』というハングリー精神や競争心がそこで養われて、それは今も生きています」
クボタスピアーズ1年目は喧嘩三昧の日々!?
入団1年目のプロフィール写真。練習中に今野・現アシスタントコーチと殴り合っていた時期? 【クボタスピアーズ船橋・東京ベイ】
「個性派ばかりの、ヤバいメンバーでした(苦笑)。ただ、どのチームに入るかは悩んだのですが、この同期メンバーがいれば絶対にチームを強くできるという、変な自信がありました」
この、いわゆる「根拠のない自信」は、その後の杉本のラグビー人生においての重要な背骨となる。しかし、大学時代に養われた競争心をベースに「俺たちがチームをトップリーグに復帰させる!」というギラついた野心を持ってクボタスピアーズに合流するも、そうした気概はチームの現状と大きなハレーションを起こすに至る。
「1年目のころは、練習中に普通に喧嘩していました。ナンバーエイトだった僕がジャンプしたら、今野さんが下にタックルで入ってきたんです。これは反則になるんですが、それで僕は今野さんに思い切りボールを投げつけました。そのあとのモールでは、お互いに胸ぐらをつかみ合って、もう喧嘩ですよ。今では考えられないですよね」
この「今野さん」とは、杉本より2年先輩の現アシスタントコーチの今野達朗。今のクボタスピアーズでいうと、練習中にガチギレした江良颯が末永健雄に突っかかっていったような、ニュアンス的にはおそらくそんな感じである。
「でも、僕らもバカじゃないので。このままじゃダメだと。時間はかかるかもしれないが、ちゃんと環境を作っていかなくてはいけないと思うようになりました。みんなで、共に創る。僕の中で『共創』という概念が生まれました」
「競争」から「共創」へ。「ラグビー」という競技を通し、杉本は少年から青年へ、そして青年から大人へと階段を昇っていく。(つづく)
文:藤本かずまさ
写真:チームフォトグラファー 福島宏治
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