【浦和レッズホーム最終戦特集ファイナル】親友の説得、ケガとの戦いを経て決断。阿部勇樹、現役最後のホームゲームへ

浦和レッドダイヤモンズ
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【©URAWA REDS】

阿部勇樹が現役引退を発表してから、10日余りが経った。大原サッカー場でトレーニングを行う浦和レッズに阿部がいる風景は、まだ日常だ。

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明治安田生命J1リーグ 第36節 横浜F・マリノス戦【MATCH PARTNER 三菱重工】翌日のトレーニング。ランニングなどでリカバリーを行っている選手たちから離れた場所で、その他の選手が5対5に2人のフリーマンを加えたポゼッションゲームに励んでいた。

90分間チーム全体で闘い、勝利した前日の試合の影響か、はたまた味方への指示や称賛の声を出し続けていた酒井宏樹が参加していた影響か、トレーニングは活気に溢れていた。

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その最中、体と体がぶつかり合う大きな音が響いた。ユースから今年昇格した福島竜弥に激しくプレッシャーをかけていたのは、阿部だった。ボールを保持しようとする福島に対し、阿部は何度も体をぶつける。ボールを失い、天を仰いで大声で悔しさを表現する福島の様子が、阿部のチャージの正当性を証明していた。

その直後のGKを含めて6対6のゲーム形式のトレーニング。そこかしこにスペースがあり、常に動き続けなければならない。

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約6分間を1本終えると、座る選手や寝転がる選手が続出する。阿部は表情を変えず、歩きながら呼吸を整えた。3本を終えると、『ようやく』膝に手をついた。そのとき、地面についているのが足の裏だけだった選手は、ほとんどいなかった。

その一方で、楽しむことも忘れない。リフティングゲームでは他の選手の滑稽な失敗に大笑いする。サッカーテニスでは制限時間ギリギリの最後の味方のアタックがバーに当たってボールが自分たちのコートに戻ってくると、チームメートの酒井宏樹、関根貴大とまるで申し合わせたように、そろって両手で頭を抱え、ほぼ同時に崩れ落ちた。

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寡黙な印象もあるが、実は明るい。「何年か前に笑いすぎたし喋りすぎたから、もう笑わないし喋らない」と意味がよく分からないことを言うこともあった。15年ほど前の日本代表合宿では、当時放送されていたバラエティー番組『内村プロデュース』のDVDを見て笑うことがリラックス方法の一つだった。

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緊張と弛緩。そのいずれを見ても、あと1ヵ月足らずで役割を終えようとしている選手には思えない。

「阿部ちゃん、もう1年やれるんじゃない?もう1年やろうよ」

興梠慎三は、阿部に何度もそう伝えた。

今年が勝負。今年が最後かもしれない。現役引退発表会見の場でようやく阿部が公にした10ヵ月前からの気持ちを、興梠は世間よりもずいぶんと前から知っていた。

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年齢は5歳差。小学生なら6年生と1年生。中学生、高校生はもちろん、ストレートで合格すれば大学でも同じ時間を過ごさない。サッカーで言えば、同じU-23代表でプレーすることは極めて稀。世代が異なる。

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それでも、阿部と興梠は妙に馬が合った。興梠がレッズに加入してからの9年間、ウォームアップのランニングでは並んで先頭を走り、ピッチ外でも多くの時間を共にした。

興梠は何かあれば、阿部に相談した。でも、阿部はあまり相談してこない。阿部が興梠を信頼していないわけではないことは言うまでもなく、阿部はそもそも人に相談することがほとんどない。興梠はそれを知っている。

それでも、「今年で最後かもね」と何度か聞いた。その度に興梠は、阿部を説得した。自分でも「しつこい」と思うくらい、何度も。まだ、一緒にプレーしたいから。

それでも、阿部の意志は固かった。

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槙野智章、宇賀神友弥、西川周作、関根貴大。共に何度もタイトル獲得、あるいはタイトル争いをしてきたメンバー。ACLチャンピオンズリーグを制した2017年の開幕時に在籍していた仲間と一緒に呼ばれた。

その時点で興梠はもう、何を伝えられるかを察した。

「阿部ちゃんが決断したことは尊重する。でも、さみしいよ」

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興梠は顎を上げ、どこともない場所を見つめながら、ため息とともに言葉を吐いた。

「今年が始まった時点である程度、最後の年になるのではないかと考えていた」ことに加えてもう一つ、現役引退発表記者会見で阿部が明かしたこと。それは、「本来ならもっと早く引退するべきだったのかな」という気持ちだった。

この数年はケガとの戦いだった。

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サッカー選手にケガは付き物だ。例えばレッズでのこの2試合で先発を外れ、先の日本代表戦でもチームには合流しながら出場を回避した酒井宏樹。「無理をしていないか?」と問われると、「無理をしているかしてないか聞かれたら、もうずっと無理してますよ」と、笑いながら言い放った。

阿部はもう何年、無理をしていたのだろう。

J1リーグの出場が2年合計で14試合にとどまった2019年、2020年を経て、今季は開幕戦から先発出場し、CKから今季のチーム初ゴールを決めた。

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それから公式戦8試合中7試合に出場した。明治安田生命J1リーグ 第3節 横浜FC戦では1本目のPKをゴールから遠ざかっている杉本健勇に譲り、2本目のPKを決めてJ1リーグでの成功率100パーセントを維持した。

しかし、出場時間が10分に限られたJリーグYBCルヴァンカップ グループステージ 第2節 柏レイソル戦の翌日に行われたJエリートリーグ 第1節 北海道コンサドーレ札幌戦で先発出場すると、前半で負傷した。

約1ヵ月間、試合にして4試合離脱して復帰すると、そこから公式戦14試合中11試合に出場。先発出場した明治安田生命J1リーグ 第13節 ベガルタ仙台戦では、FKを直接決めた。

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セットプレーとPKとFK。今季限りの可能性を秘めていたことはそのとき、多くの人は知る由もない。阿部の代名詞のようなゴールは、復活さえ印象付けた。

しかし、6月下旬にまたも負傷。6試合の欠場を経て、8月9日にアウェイの札幌ドームで行われた、明治安田生命J1リーグ 第23節 北海道コンサドーレ札幌戦で88分からピッチに立ったことを最後に、ここまで3ヵ月余り、メンバーにも入れていない。

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9月に入ると別メニュー調整が続いた。チームがアディショナルタイムの劇的なゴールで川崎フロンターレを下してYBCルヴァンカップ 準決勝進出を決めた2日後、誕生日当日がオフだった阿部が40歳になって初めてのトレーニング、阿部はトレーニング時間を室内で過ごした。

別メニュー調整は9月下旬まで続いた。信頼する野崎信行アスレチックトレーナーと時に笑顔でコミュニケーションしながらも、真剣にリハビリに励む阿部の姿は目を引いた。その背中は、目を離すことを意識しなければ、ピッチでトレーニングしているチームを見られないほどだった。

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しかしその頃、休憩中にスラローム用のバーを持ちながらピッチを眺める阿部の表情と背中からは、それまでとは雰囲気が違っていた。今思うと説明し難いが、わびしさのようなものが漂っていた気がする。

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「自分が40歳の誕生日を迎える前までにはある程度決めて、クラブにはお伝えしたいという思いがあったので、9月の頭にはクラブには伝えさせていただきました」

そのときもう、阿部は引退を決断していた。

それでも阿部は、復帰した。

「練習したことが試合に出る。だから勝つためにはもっと練習しなければいけない」

試合のたびにそういった趣旨の発言を繰り返してきた阿部は、今週も試合に向けて全力でトレーニングに励んできた。

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現在のチームメートの中でもまずは長い年月を過ごした仲間に伝えたように、阿部はお世話になった人たちへ自分の口で直接、引退を報告することにこだわった。現役引退発表をできるだけ遅らせ、お世話になった人たちのもとへ足を運び、感謝を伝えた。

メディアに対しても一般に対しても記者会見を『クラブからの重要なお知らせ』としたのは阿部の願いであり、ファン・サポーターに対して「自分の口から感謝とこういう決断をしたことをお伝えしたかった」からだ。

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現役引退発表会見は画面越しだったが、27日は埼玉スタジアムで引退セレモニーが行われる。

阿部の言葉や姿勢は、仲間を導く力がある。

例えば昨年は試合に出られず悩んでいたルーキーの武田英寿に声をかけて、自分の経験を伝えながら悩みを解きほぐした。例えばどんなときでも朝早くクラブハウスに来ることを含めた日々の過ごし方で、今季のルーキーである大久保智明に長く現役生活を続けてこられた秘訣を伝えた。

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引退セレモニーでは、キャプテンとしてこれからのレッズを担っていくチームメートにもメッセージを送り、レッズの未来へのおもいを語るだろう。そして、これまで長く一緒に闘ったファン・サポーターへのおもいを直接伝えるはずだ。

11月27日、埼玉スタジアム。4年前にアジア王者になった記念日の2日後もまた、我々にとって大事な日になる。

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著者プロフィール

1950年に中日本重工サッカー部として創部。1964年に三菱重工業サッカー部、1990年に三菱自動車工業サッカー部と名称を変え、1991年にJリーグ正会員に。浦和レッドダイヤモンズの名前で、1993年に開幕したJリーグに参戦した。チーム名はダイヤモンドが持つ最高の輝き、固い結束力をイメージし、クラブカラーのレッドと組み合わせたもの。2001年5月にホームタウンが「さいたま市」となったが、それまでの「浦和市」の名称をそのまま使用している。エンブレムには県花のサクラソウ、県サッカー発祥の象徴である鳳翔閣、菱形があしらわれている。

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