寺地拳四朗の強さがリミッターを外す!? ユーリ阿久井政悟の“戦慄の右”は解き放たれるのか
脳が揺らされるイレギュラーな右
「何というか(ミットへの)入り方がイレギュラーなんです。普通なら、こう真っ直ぐ入ってくるはずが、ミットが跳ね飛ばされる。それが上に跳ね上がったり、右とか左に跳ねたり、一定じゃないんですよ。もちろん全部が全部じゃなくて、しっかりミットに打ち込んでくる中で突然、来る。不意に跳ね飛ばされるんです」
ミットで受けながら、何度、観察しても打つ体勢、フォームはほとんど変わらない。ところがミットに届くまでの軌道とインパクトの瞬間の感覚がズレるというのだ。自身の目で確かめることはできない最後の拳の返しが違うのではないか、と結論付けるほかなかった。
では、その右を受けるとどうなるか。
「威力があるというか、あれをもらったら多分、(脳が)揺らされるんじゃないかな、と思いますけどね」
須増トレーナーが正式に倉敷守安ジムでトレーナーライセンスを取得し、セコンドにつくようになるのは、世界初挑戦で王座奪取を果たすことになるアルテム・ダラキアン(ウクライナ)戦の前。だが、付き合いはもっと長い。
阿久井の練習を見るようになったのは、3戦目の新人王西軍代表決定戦で引き分け、優勢点の差で敗退した後、2014年の冬のことだった。
阿久井の父・一彦さんの1歳年下で、同時代を過ごした守安ジム(当時)から3年ほどアマチュアのリングに立った後、後進の指導に回った。当時はジムOBの斉藤博之会長に誘われて以来、長くトレーナーを務めてきた同じ倉敷の斉藤ボクシングスポーツジムを離れ、フリーで活動し始めたところだった。
かねて「目をつけていた」という阿久井は、その噂を聞きつけ、「僕から頼んだ」と話していた。とはいえ、フリーのトレーナーとして出向く先は他にもあり、別に仕事も持っている。「来れるときに来てもらっていた」と頻度としては決して多くなかった。
それでも「基本的に自分で考えて、ボクシングをつくってきた」と自負する阿久井が「感覚が近いところがあって、一番合っていた」という人だ。
阿久井の右ストレートの原点
「意識してないからこそ、出せたんだと思うんです。面白いし、変える必要はないな、と思って、自分は直さなかったんですけど」
阿久井が自身の右ストレートについて、最初に「コツみたいなのを教えてくれた」のは一彦さんだったと話していたことがあった。
小学5年生のとき、お年玉でグローブを買った。それからサッカーを辞め、倉敷守安ジムに入る中学2年生までボクシングを教わっていたのは父だった。
一彦さんと連絡を取ると「わしはパンチの基本的な打ち方とか、“さわり”しか教えてないんですよ」と電話越しに笑いながら、「イメージしてくださいよ」と野球のバットスイングを例にとり、「こだわりの右ストレート」について教えてくれた。
「左足を踏み込んで、ヒザ、腰、上半身と順に回って、最後の最後にバットが出てくるでしょ?このイメージ。だから、右ストレートを速く打つコツは、遅く打つことなんですよ。じゃけど、みんな、速く打とう、速く打とうとするわけ。そうすると下半身が回ってないうちに右手が出て、手打ちになる。速く打つな、ゆっくり打て。力を入れて打つな、軽く打て。焦るな。これが阿久井流」
軸をつくり、下半身の回旋で打つ。しなりが生まれ、自然とパンチにスピード、体重が乗る。シンプルで理にかなっている。これが体に染みつき、「読みづらいタイミングにはなってるかもしれない」と阿久井が振り返っていた右の原点である。
ただし、この打ち方、フォームさえしっかりできれば「あとは何も言わない」と一彦さん。「1ラウンドKOを量産したときは『おい、おい、すごいな』みたいな感じですよ」と苦笑した。
「今はバージョンアップして、わしのボクシング理論をはるかに超越しとるから。やつの考えてることはよく分からないんですよ」
さまざまなボクサーを動画で研究し、ジムからアマチュアの大会に出た高校生の頃は岡山県チームの引率のコーチや他の選手、プロでは出稽古先のトレーナーや選手たちのさまざまな考え、練習などに触れ、ヒントや発想を得る。ときにはボクシングとは関係ないところからも。「僕のボクシングは、いろんなところから取ってきたものですよ」と阿久井は言っていたものだ。
最後の最後まで可能性はある
「本人が右ストレートに磨きをかけることで、それがなくなったのか。そういうパンチが今は出てきません。ミートするところに照準を合わせて、正確に捉えるし、レベルはすごく高くなったんですけど。“優等生”みたいな右ストレートになってるんで、自分としては残念なところもあるんです」
あらためて映像を見返すと確かに印象が異なる。
最初の一撃でフラリとさせ、ダメージを与え続けた矢吹正道(緑=当時)戦、不用意なダウンを喫しながら、2度倒し返した湊義生(JM加古川)戦、小坂駿(真正=当時)を都合4度倒した日本フライ級王座決定戦、初回TKO勝ちを連発した当時の阿久井の右は、思い切りがいいという意味での、ある種のラフさが感じられる。
対して、最後のKO勝ちとなった桑原戦の初回にドンピシャで倒したワンツー、最終ラウンドに豪快に沈めた右カウンターとも、タイミングといい、よりコンパクトな軌道といい、見比べると洗練された印象を受けるのだ。
その桑原戦の前、コロナ禍で延期開催された藤北誠也(三迫)戦以降、ブロッキングやボディワークを駆使したディフェンス、プレスのかけ方が一戦ごとに向上し、阿久井が言うように、より堅実にチャンスをうかがいながら、勝利をものにするようになってきたと感じる。
では、あの右の感覚は完全に失われ、もう出る可能性はないのかというと、そうではないという。
2024年1月11日、延期になったダラキアン戦の2度目の公開練習だった。阿久井が須増トレーナーのミットを右で吹っ飛ばす場面があった。受け損ねた、といった感じで2人は笑い合い、その場は和やかな雰囲気に包まれたが、「あれが感覚としては近かった」というのだ。
次の寺地との王座統一戦。基本的な戦略は変わらないだろう。発表会見で「我慢比べの試合になる」「(自分のボクシングを)崩されたほうが負ける」と阿久井がコメントを残したように、寺地が仕掛けるはずのハイテンポな攻防に対処し、仕掛け、駆け引きし、緊迫感のある戦いの中でチャンスをうかがうことになる。
そして、「リミッターを外せたら」という阿久井の決意である。どこで、どういう形で勝負をかけるか。最強の相手に対し、あらゆる戦況をイメージしているはずだ。
チャンスをつかむのは、やはり右になるのか。須増トレーナーはこう期待を込める。
「最後の最後まで戦う気持ちが前に出て、心が折れない前提で(あの右が出る)可能性はあると思います」
最後の一瞬まで決して目が離せない。