“とび職見習い”だった増田大輝が再び野球の道へ 「お前をプロに行かせる」と交わした固い握手
【写真は共同】
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とび職からプロ野球選手を目指した男
「応援してるから―」
そう言われて、結果を出せないと落ち込む。結果なんて、毎回必ず残せるものではないし、相手が純粋に頑張ってほしいと思って言ってくれていることは分かる。だが、周りの期待に応えなければいけないと、自分を追い込んでしまう。そのプレッシャーに、いつの間にか押しつぶされそうになってしまっていた。
だが、「応援してるから」と言われたくないのは、応援してほしい気持ちの裏返しだ。
「いろんな人から『応援してるから』って言われたのに……。応援してくれてるのに辞めるのか……。もう俺のこと、応援してくれんようになるな……」
大学野球とは、まったくそりが合わなかった。最初のころは守備練習にも入っていたのだが、なかなか自分のやりたいようにさせてもらえず、「肘が痛い」と言ってノックに入らなくなった。そんなことが続き、1年時はほとんど練習に参加していない。だが、光るものは持っている。急にメンバーとしてベンチ入りするよう告げられ、公式戦に出場すると安打を放つ。
4年生が卒業し、新人戦、冬練習と続いたスケジュールのなかで、「足を壊した」と言ってグラウンドに行かなくなった。結局、2年に進級してしばらくしたころに退学している。2013年5月のことだ。
7月29日で二十歳になる。まだまだ動ける体でいたい。体力は落としたくない、と考えていた。そんなとき友人から勧められたのが、とび職のアルバイトだった。
「重たい物を持つとかトレーニングにもなるし。ちょっとでも体力がつくなら、ええかもしれんなあ」
高いところでの仕事は、思ったほど怖くないようだ。だが、仕事の種類が多く、完ぺきに覚えるのはそう簡単ではない。しかし、とび職の先輩たちはとても明るく、親切に仕事を教えてくれる。昨年までのようなギスギスした人間関係は、そこにはなかった。
とび職人の見習いとなって1カ月ほどが経ったころ、電話がかかってきた。
「お前、野球やれへんのか?」
小松島高校時代のコーチ、中西嘉昭からだった。このまま増田の実力を埋もれさせてしまうのは、あまりにももったいない。そんな思いから電話をかけている。
「軟式はやり始めました」
「いや、硬式よ。硬式はもうやらへんのかって」
野球をやりたくないわけではない。
だが、ドロップアウトした自分が、もう一度、真剣に野球をやってもいいのか? 第一、受け入れてくれるチームがあるのか? もう1年以上、練習らしい練習をやっていない。本音を言えば、ブランクの怖さだってある。
あの重くのしかかってくるプレッシャーに、もう一度身をさらそうと思えるだけの覚悟はまだ固まっていない。だが、中西コーチは言葉を続ける。
「インディゴあるやろ。俺がちょっと、話進めたるわ」
「あ、ありがとうございます」
とりあえず、そう答えて電話を切った。
「インディゴソックスか……」
秋に四国リーグのトライアウト(入団テスト)が行われるらしい。夏が近づいたころから、草野球の合間に硬式のボールを握るようになった。本格的に徳島への入団を目指し、時間のあるときに母校のグラウンドを使わせてもらっている。徳島でもう一度、野球がやりたいという気持ちと、本当にやれるのか? という不安とが葛藤していた。