「決勝で横浜に勝って、甲子園に出たい」 横浜創学館・森田監督が目指す母校撃破と初出場
【写真提供:カンゼン】
選手にさまざまな個性があるように、監督にもさまざまな色がある。夏の勝者はわずかに1校。全国屈指の激戦区・神奈川で互いに切磋琢磨しながら鎬を削る監督たちの熱い想いを一冊にまとめた書籍「高校野球激戦区 神奈川から頂点狙う監督たち」(大利実著)から、一部抜粋して公開します。
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指導法を考えるきっかけとなった新型コロナとグラウンド改修
出身は、横浜創学館の地元・横浜市金沢区。金沢中から横浜に進み、渡辺元智監督のもと、2年夏(1981年)に背番号13で甲子園の土を踏んでいる。日体大卒業後、山手学院の監督を経て、1991年から横浜創学館の前身である横浜商工の監督に就いた。
「ルーキーズ」と書くとOBに怒られそうだが、血気盛んなヤンチャ軍団を、エネルギー溢れる森田監督が厳しく鍛え上げ、1994年夏には初のベスト4進出。準決勝の横浜戦で、エースで四番の片山英和が満塁からライトポール際に大ファウルを打ったときには、「打った瞬間に、(新幹線の)新横浜駅が見えた」と印象深いコメントを残している。
2003年に、横浜創学館に校名を変更。小田和正氏に作詞・作曲を依頼した愛唱歌『遥かな想い』も完成し、新たなスタートを切ると、同年秋の県大会で初優勝を飾り、関東大会出場。2008年の南神奈川大会では創部初の決勝に進み、2011年にもベスト4まで勝ち上がった。
中学時代に特別に目立っていない選手であっても、「鍛えれば伸びるタイプ」を積極的にスカウトし、秋山翔吾(広島)、福田俊(日本ハム)ら9人の教え子がNPBに進んでいる。
森田監督にとって、グラウンドに毎日行くのが当たり前。生活の中心に野球があり、どういう教えをすれば、目の前の選手が伸びるかを常に考えていた。頭の中にあるのは、夏の神奈川を制すること。
しかし――、そんな生活が大きく変わったのが2020年春。新型コロナウイルスによってその当たり前が奪われた。
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