ボルトンで出会った西澤明訓と中田英寿 プレミアリーグに挑んだ2人の先駆者の記憶
完璧な英国風英語で応対した入団会見の衝撃
中田英寿を獲得し、入団会見でのアラダイス監督は得意満面だった 【写真:ロイター/アフロ】
大勢の地元記者を巻き込んだ会見は、欧州における中田の存在感を示していた。しかしそれよりも驚いたのが彼の英語だった。完璧な英国風の英語。しかも教養さえ感じさせる優雅な発音だった。
イタリア語を流暢に話すとは聞いていたが、英語も素晴らしかった。そして「ボルトンの多国籍軍団についてどう思う?」と聞かれると、落ち着いた態度で穏やかな笑顔を浮かべ、「国籍でフットボールをするわけではない」と返答した。
その瞬間、中田の隣に座っていたアラダイスが「俺も全く同意見だ」と嬉しそうに言ったことも忘れられない。西澤を獲得したシーズンにプレミアリーグに昇格し、一番生き残るのが難しい初年度を16位で通過すると、その後アラダイスはマンチェスター北部の小さな地方都市のクラブをイングランド1部リーグの中堅チームに押し上げ、この前シーズンにはヨーロッパリーグの前身であるUEFAカップの出場権をもたらしていた。
ヨーロッパの舞台に参戦するシーズンに、ネームバリューのある中田を獲得し、アラダイスはブルドッグのような迫力ある顔をくしゃくしゃにして得意満面だった。
そしてこの会見に加え、もう一つ強烈に覚えているのが、中田がプレミア初ゴールを決めた瞬間である。
記録を調べたら、2005年10月23日に本拠地リーボック・スタジアムで行われた第10節のウェストブロミッチ戦だった。
相手陣のペナルティボックス手前で中田自身が倒されて得たフリーキックだった。やや右サイドに寄っていたが、距離的には絶好の位置。そこから自慢の右足を小さく鋭く振り切り、対角線上に絶妙なシュートを放ってゴール左隅ぎりぎりに叩き込んだ。
ボルトン時代の中田のハイライトは、唯一のゴールとなったプレミア第10節のフリーキックだろう。シーズンを通して見れば大きなインパクトは残せなかったが、随所に輝きを放った 【Photo by Michael Steele/Getty Images】
すると、そんな筆者の様子を見て、日本から取材に来ていた某スポーツ紙の記者が「森さん、中田のファンなんですか? でもあいつは僕らの敵ですよ。本当に嫌われている」と耳元で囁いてきたのだ。
それは中田が日本メディア――特にスポーツ新聞の取材を完全に拒否していたからだというのは分かっていた。実際、このプレミア初ゴールを決めた試合後にも中田が我々日本人記者団の前に姿を現すことはなかったし、シーズンを通して、当時の日本代表最大のスターだったMFがイングランドで日本語を話すシーンを見ることはなかった。
無論、筆者もスポーツ紙の通信員として取材に出かけているわけで、取材拒否はありがたくはない。しかし基本はフリーランスであり、母国を離れて英国で生活する日本人でもある。
その点で欧州、特に同じ英国で戦う日本人選手には強い思い入れを抱く。言葉や文化が違う国で味わう苦しさともどかしさ。もちろん楽しさもある。「違い」は時に愉快な発見にもつながる。
そんな日本と海外の違いを楽しむ感覚も、日本人選手が欧州で成功する鍵となるのだが、それがなかなか難しい。
一般的に日本人は外国語が苦手で、義務教育にも取り入れているのに英語さえ上手く話せない。けれども中田は美しい英語を話し、そんな言語の壁を簡単に乗り越えると、この初ゴールの瞬間、イングランドでもきらめいた。
それに加え、大男ぞろいのプレミアのディフェンダーに囲まれながら、首より高いボールばかり飛んでくるボルトンの右サイドでプレーしても、ボールの落下地点をいち早く的確に読んで体を入れて激しいボール争いを制し、素早いターンやフェイントで相手を翻弄(ほんろう)して、その存在感を示したのはさすがだった。
しかしこの後は、慢性化していたグローインペイン(股関節の痛み)に苦しみ、日本代表に招集される度にチームでの内の序列が下がって、期待通りの活躍ができたとは言えないシーズンになった。
けれどもアラダイスは翌シーズンも中田が希望すれば、ボルトンでプレーさせる意向だった。ところが肝心の中田本人がシーズン後に行われた2006年ドイツW杯で日本代表がグループ戦敗退を喫してから約10日後、29歳という若さで現役引退を表明した。
この時、ボルトンでのシーズンは、グローインの痛みをこらえる10カ月でもあったのだと実感し、あらためて中田の偉大さを感じるとともに、もしも絶好調時にプレーしていたらと、この時点では日本人が全くインパクトを残せていなかったイングランドで、つい虚しい妄想を膨らませてしまったのだった。
(企画・編集/YOJI-GEN)