「23歳のマイケル・ジョーダンの13歳版」だったコービー “完全体に近づいたジョーダン”との初対面
【Photo by Kirby Lee/Getty Images】
マイク・シールスキー 著『THE RISE 偉大さの追求、若き日のコービー・ブライアント』はNBAレジェンド、コービー・ブライアントがフィラデルフィアで州大会優勝を成し遂げ、レイカーズに入団するまでの軌跡を描いています。この連載では、コービーの高校時代を彩るさまざまな要素を一部抜粋の形でご紹介します。
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コービーは学年で四人選ばれる、優秀なアスリートのうちの一人に選出された。1991-92シーズンのバラ・キンウッド中学のイヤーブックをめくると、そこに写る彼は社交面でもスポーツ面でも学校にとって欠かせない人物のように見えた。写真には膝にバスケットボールを抱え、ハイトップフェードに刈り上げられた髪型で石塀に座るコービーが、フットボールを掴んでいる二人の男子生徒とフィールドホッケーのスティックを持った茶髪の女子生徒と一緒に写っていた。
バスケットボールのチーム写真の後列には直立して両手を背中で組み、いかにも自然に写っているコービーがいた。しかし、野球チームの写真は違っていた。写真にはコーチを務めていたロバート・スミスという野暮ったい理科の教師と17人の選手の計18人が写っていた。選手たちは二列になって膝をつくか立っていた。一人を除く全員がバラ中学のユニフォームにズボンを身につけ、スニーカーまたはスパイクを履き、手にはグローブをつけていた。コービーは右端に立ち、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。彼はチームで唯一の黒人生徒で、独りユニフォームを着ておらず、代わりに暖かそうなコートとボタンを一番上までとめた白い襟のついたシャツの上にカラフルなセーターを着ていた。写真を見ると彼が真っ先に目に留まった。その場に馴染んでいなかった。まだ子供っぽさが残る彼は単なるバスケットボール選手ではなかった。それでも、この写真から彼の人生がどのような方向へ向かうかを想像するのは難しくなかった。
「彼は野球が大好きで、実際になかなか上手かったんです」と友人のデイナ・トルバートは言った。
「みんなが彼をマイケル・ジョーダンと比較し始めたときは、マイケルと他にも共通点があることにみんな気づいていないと思いました。コービーはただバスケに集中していたんです。私たちは彼の成長を目の当たりにしました。少年のようにプレーしていたコービーが、大人のようにプレーするようになるまでの過程を目の前で見ていたんです。それは驚異的でした」
レミントン・ロードの自宅から3ブロック先にはウィンウッド・ヴァリー公園があり、コービーはよく友達のマット・マトコフと一緒に行ってふざけあった(バスケに関してコービーがふざける場面は限られていたとはいえ)。
コービーはマトコフを信用して、彼をその先四年間駆り立てることになる秘密を打ち明けた。八年生の時点で、彼はNBAを目指していた。夢などではなかった。それは計画であり、限られた人にだけ打ち明けた。バラ中学ではマトコフのことを親友だと認識していたにも関わらず、丸一年待って、九年生になってから初めて「高校を卒業したらそのままNBA入りするという選択も視野に入れている」と話した。マトコフはコービーを信じていなかったからではなく、その考えがあまりに突拍子もないものだったため驚いた。コービーのことは信じていた。コービーに将来の予定を告白される以前から、八年生のクラスメイト全員に「あいつはいつかプロになる」と言っていたほどだった。
「『あいつはまだそこまで上手くない』と言われたけれど、それはコーチに打たせてもらえなかったからだった」と以前コービーは言ったことがあった。
そこで、コービーはまるでドクター・スミスや彼を疑う連中に知らしめるかのように、賭けを持ちかけた。高校では毎年フープ・イット・アップと呼ばれる、生徒間で行われる3オン3のバスケットボール・トーナメントが開催されていた。コービーがマトコフと別の友人のデイブ・ラスマンと登録して優勝できるかどうかという賭けだった。
「そんなわけあるか。じゃあ賭けるか? 高校生が相手だぞ? 勝てるわけがない」
コービーはマトコフとラスマンと優勝すると、自分が来季はヴァーシティー・チームで先発するだろうと予言した。
「全員笑い出したよ」とコービーは当時を思い出しながら話した。
「『勝手に言ってろ』って。クラスメイトがだよ! 笑っちゃうよ。当時はなかなか信じてもらえなかった。マットが『あいつはディビジョン1の大学の選手になる』と言っても『まさか。そんなことはできるはずがない。できっこないよ』。あの頃はみんなが疑っていた。するとあいつは『コービーはプロになるだろうし、高校を出てそのまま行こうと思えば行ける』と言ったんだ」
とはいえ、いくらコービーに対するマトコフの忠誠心が確固たるものだったとしても、いくらいつもコービーと練習したがったとしても、たとえいくらマトコフがコービーを信じていて彼の旅のお供をする気があったとしても(マトコフ自身がプロになれるとは思っていなかったとはいえ、バットマンに対するアルフレッドのようにコービーと共に歩むことができるかもしれなかった)、彼らの間には才能の格差がありすぎて、長い時間一緒に過ごすのは非生産的だった。近所にある郊外の公園で練習していても、大した上達は見込めなかった。友情を育むにはよかったが、プレーを磨くためには時間の無駄だった。
マトコフは高校生活を通しても親しい友人だったものの、コービーにほかの友達はそれほどいなかった。二人の姉はすでにローワー・メリオン高校にいた。彼は中学で頼れる人は誰もおらず、カルチャーショックを和らげる手助けをする者はいなかった。
日中、貴重品にロックをかけて保管しておく? 彼もシャリアもシャヤも、イタリアの学校でロッカーを使ったことがなかった。アメリカではなぜそんなものが必要なのだろうか? 誰かに物を盗まれたとき、彼は驚いた。彼はアメリカの典型的なティーンエージャーが使うような今時の言葉(スラング)を知らず、そのせいで誰かとすぐに打ち解けることもできなかった。友達やクラスメイトや同級生が彼にはいまいち理解できないようなことを言った場合、ただ黙って頷いていた。彼はスーザン・フリーランドが言うように誰とでも気軽に接してはいたものの、同級生との間には距離を保っていた。彼自身はそれでよかった。その分、バスケに打ち込むことができた。