内海哲也が振り返る「メークレジェンド」と「ニセ侍」 原監督の下でエースを張った男の思い
原監督と「ニセ侍」
伝え聞いた当初はさすがにショックを受けましたが、原監督から呼ばれて「そういうことではないぞ」と意図を直接説明していただきました。
原監督は〝アメとムチ〞の使い方がうまいというか、僕に対してはそういう接し方でした。褒めるときは直接呼んで「よくやった」と声をかけてくれる。対して、怒られたり𠮟咤されたりするときは報道を通じてでした。
中には直接怒る選手もいる一方、僕には間接的に「気づけよ」というニュアンスのことが多かったように感じます。
原監督は2022年に歴代10位の監督通算1200勝を飾り、ジャイアンツを9度のリーグ優勝と3度の日本一に導いています。指揮官としての手腕は僕が語るまでもないですが、選手の性格を見抜き、やる気を駆り立てるのがとにかくうまい方です。僕が成長する上で、半端ではない影響を受けています。
2009年はWBCで不本意な投球に終わり、帰国後も思うように勝てず、5月4日の阪神戦で敗戦投手になると登録抹消されました。
5月16日の広島戦で再昇格、同23日の楽天との交流戦でシーズン初勝利を挙げると、このシーズンは27試合に登板して9勝11敗、防御率2・96。3年続けていた二桁勝利は途切れたものの、日本ハムとの日本シリーズではチームの日本一に貢献することができました。
僕に出番が回ってきたのは、札幌ドームでの初戦を取った直後の第2戦です。相手先発のダルビッシュ有(現サンディエゴ・パドレス)が本調子とは程遠い中でカーブを多投してジャイアンツ打線を抑えたのに対し、僕は3回途中4失点と不本意なピッチングに終わりました。意気消沈していた試合後の移動中、阿部慎之助さんの𠮟咤で目覚めることができ、スクランブル登板した第6戦でやり返すことができました。
そうして7年ぶりの日本一になんとか貢献できましたが、トータルで言うとWBCの不甲斐なさをうまく払拭できなかったシーズンでした。実際にはWBCの影響はあまりなかったと思いますが、それを言い訳にしていた自分がいました。ペナントレースの前半戦は特に、「WBCがあったから投げ込みをできず、調整がいつもの年のようにできなかった」と考えていたのです。マイナス思考になり、悪循環に陥っていました。
もしアメリカから帰国後、すぐに切り替えてポジティブに取り組んでいたら、シーズンは違う結果になっていたかもしれない。日本シリーズ終了後、そう反省しました。
書籍紹介
【写真提供:KADOKAWA】
「自称・普通の投手」を支え続けたのは「球は遅いけど本格派」だという矜持だった。
2003年の入団後、圧倒的努力で巨人のエースに上り詰め、
金田正一、鈴木啓示、山本昌……レジェンド左腕に並ぶ連続最多勝の偉業を達成。
6度のリーグ優勝、2度の日本一、09年のWBCでは世界一も経験するなど順調すぎるキャリアを重ねたが、
まさかの人的補償で西武へ移籍。失意の中、ある先輩から掛けられた言葉が内海を奮い立たせていた。
内海は何を想い、マウンドに挑み続けたのか。今初めて明かされる。