内海哲也『プライド 史上4人目、連続最多勝左腕のマウンド人生』

内海哲也が振り返る「メークレジェンド」と「ニセ侍」 原監督の下でエースを張った男の思い

内海哲也

初めてのWBCで抱いた〝夢〟

 日本シリーズ終了後の12月中旬、優勝旅行でハワイに連れていってもらいました。常夏の地でゴルフやショッピングをしてリラックスする選手たちが多い中、僕は向こうでも到着した次の日から練習していました。

 翌年の2009年3月に第2回WBCがあり、なんとしても日本代表のメンバーに入りたかったからです。

 将来、メジャーリーグでプレーしたいという希望を当時は抱いていました。WBCの1次ラウンドを突破すれば2次ラウンドはアメリカで開催されるので、向こうのスタジアムを見ることもできます。なんとしても日本代表に選ばれてその機会を得るために、ハワイでは毎朝ひとりで30分ランニングを行い、個人トレーナーにつくってもらったウエイトトレーニングのメニューや、キャッチボールをしていました。バカンス気分はまったくなく、WBCに照準を合わせていました。

 帰国後はグアムでの自主トレ、ジャイアンツの春季キャンプを消化し、いよいよ大会開催前の2月15日、33人の候補選手たちが宮崎で行われた合宿に参加しました。そのうち5選手は選考から外れ、メンバーから漏れることになります。当事者のひとりとしては、なかなか厳しいものがありました。

 結果的に僕は28人の代表選手に選ばれましたが、原監督がジャパンを率いていたことも選出の理由にあったと思っています。そうして選ばれたことに申し訳ない気持ちもありながら、これをいい経験にしようと考えました。

「もう代えてほしい」と思ったくらい

 日本代表は1次ラウンドを2勝1敗として2位で突破します。アメリカに移動しての2次ラウンドは3試合目でキューバに勝利して準決勝進出を決め、最後の韓国戦で僕に先発のチャンスが巡ってきました。すでに2次ラウンドの突破は確定していたので、原監督が投げさせてくれたのだと思います。なんとか期待に応えようと意気込み、マウンドに上がりました。

 でも、初回にいきなり1失点。2回表に内川のホームランなどで2点を取ってもらいましたが、立ち直ることはできませんでした。2回裏は無失点に抑えたものの、3回裏一死から2番・李容圭には頭部に死球を与えてしまいました。相手はその場に倒れ込み、しばらく起き上がることができませんでした。

 立ち上がりから極度の緊張でフワフワしていて、死球を与えた直後、「もう代えてほしい」と思ったくらいです。

 言い訳になりますが、普段NPBで使っているボールとWBCでは皮質が異なり、自分のボールがまったく投げられませんでした。2年前の日米野球で投げたことはあったものの、その短期間では自分の手に馴染みませんでした。しっかり握っても滑るので、特にカーブは抜けるイメージしか湧かなかったです。チェンジアップは〝抜くボール〞なので中指と薬指をしっかり縫い目にかけて投げれば多少抜けてもいいかなと思っていましたが、指に引っかかるので「あれ?」という感じがする。投げるときに手先にグッと力が入ってしまうので、前腕がずっとパンパンに張っていました。

 そうしたこともあって韓国戦では相手打者に頭部死球をぶつけてしまいましたが、3番・金賢洙をファーストゴロに打ち取ってから交代しました。後から聞くと投手コーチの山田久志さんはイニング途中での交代も考えていたそうですが、原監督が「もうひとり、お願いします」と頼んでくれたようです。

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