投手・内海哲也の原点 “黒歴史”と振り返る中学時代、敦賀気比に憧れた理由とは
戻れるなら戻りたい高校時代
敦賀気比では普段からランニング量が多く、ポール間走など1日10㎞くらい走っていたと思います。特にピッチャー陣はたくさん走りました。
夏の間は、午前中はひたすらランニングです。野手がグラウンドでボール回しを行っている間、「野手がノーエラーで10周できるまで、ピッチャーは見えるところで走っておけ」と命じられました。野手も重圧がかかったと思いますが、僕らピッチャーは、野手が成功できないと自分たちもランニングを終われない。だから、走りながら野手陣を励ましていました。こんなプレッシャーの中でボール回しをしていたら、イップスになって思うように投げられない選手が生まれるかもしれない……と感じながら(苦笑)。
当時の高校野球の例に漏れず、敦賀気比も結構スパルタだったと思います。ピッチャー陣だけ厳しいということではなく、チーム全体がハードな練習に取り組んでいました。「チーム全員で目標を成し遂げよう」という共通意識がみんなにあったので、前向きに臨むことができました。
僕にとって初めての部活動は確かに厳しいものでしたが、それ以上に楽しかった記憶が強く残っています。人見知りなので打ち解けるまでは少し苦労したけれど、寮生活も含めると24時間一緒にいるし、1年生は1年生だけの部屋が割り当てられていたので1週間もしないうちにみんなと仲良くなることができました。
体育会系なので先輩たちとの上下関係はありましたが、それ以上に仲間たちとの時間が楽しかったです。中学校では放課後にみんなが楽しそうにしている中、ひとりで帰ってボーイズの練習に行っていたのが、高校では寮から通学するのも野球部のみんなと一緒で、下校するのも同じ。練習もチームメイトたちと行い、寮に帰って寝る前の恋バナも一緒にワイワイできます。4人一部屋の寮暮らしは、思春期の高校生にとってかけがえのない時間でした。
先輩から「洗濯しておいて」と頼まれることもありましたが、それさえもみんなで楽しんで取り組んでいました。雑用を頼んできた先輩に対し、同級生たちと文句を言いながらも前向きにやる。心から楽しい高校生活でした。1年生からでもいいから、戻れるなら戻りたいくらいです。それほど部活動は、僕の人生を豊かにしてくれました。
「頑張る」姿勢の原点
でも、同級生のひとりが夜な夜なウエイトトレーニングをしている姿を見て、自分の甘さに気づくことができました。京都の違うボーイズからやって来た、中山国久。中学生の頃から有名で、敦賀気比に来ると知ったときには「うわっ、こいつがいるのか」と思ったくらいの投手です。右ピッチャーで、エース候補として期待されていました。
「中山に負けたくないから、一生懸命練習しよう」
入学当時の僕はそう誓いましたが、〝努力する才能〞がありませんでした。ある日、チームで決められた練習を終えて、お風呂に入る前に隣にあるトレーニングルームをパッと覗いたら、中山が黙々とウエイトをしている姿がありました。
「あかんわ。これじゃあ勝てへんわ……」
そう思わされてから、「中山が練習するんだったら、俺もずっと練習しよう」と一念発起しました。それが僕の「継続する」ことの第一歩になっていきます。入学して本当にすぐのことでした。
敦賀気比は、僕が入学した1998年夏の福井大会を勝ち抜いて甲子園出場を果たしました。甲子園出場を決めた地方大会では、僕と中山、もうひとりの1年生がベンチメンバーに抜擢されました。僕は初戦で先発投手として起用された中、フォアボールを連発してすぐに中山と交代。〝ノーコン病〞は治っていませんでした。3年生の打撃練習で1年生がバッティングピッチャーを任される際、僕は球が荒れるから嫌がられて、「投げなくていい」と言われたくらいです。
1998年夏の甲子園と言えば、横浜高校の松坂大輔さんが準々決勝のPL学園戦で延長17回をひとりで投げ抜き、決勝の京都成章戦でノーヒットノーランを達成するなど大活躍した大会として覚えている方も多いと思います。僕はメンバーから外れたものの、お手伝い要員としてチームに帯同させてもらいました。
2学年上の松坂さんは、同じ高校生から見てもスーパースター中のスーパースターでした。当時の敦賀気比の3年生に同じ江戸川南リトルシニアから来た選手がいて、甲子園球場の裏ですれ違ったときに横浜高校のTシャツをもらっていました。ものすごく羨ましかったことを覚えています。
それから22年後の2020年、松坂さんとライオンズでチームメイトになりました。まさか、あの松坂さんと同じユニフォームを着て野球をやることになるとは夢にも思いませんでした。2学年上のヒーローと同じチームでプレーできることになり、ものすごくうれしかったです。
書籍紹介
【写真提供:KADOKAWA】
「自称・普通の投手」を支え続けたのは「球は遅いけど本格派」だという矜持だった。
2003年の入団後、圧倒的努力で巨人のエースに上り詰め、
金田正一、鈴木啓示、山本昌……レジェンド左腕に並ぶ連続最多勝の偉業を達成。
6度のリーグ優勝、2度の日本一、09年のWBCでは世界一も経験するなど順調すぎるキャリアを重ねたが、
まさかの人的補償で西武へ移籍。失意の中、ある先輩から掛けられた言葉が内海を奮い立たせていた。
内海は何を想い、マウンドに挑み続けたのか。今初めて明かされる。