内海哲也『プライド 史上4人目、連続最多勝左腕のマウンド人生』

投手・内海哲也の原点 “黒歴史”と振り返る中学時代、敦賀気比に憧れた理由とは

内海哲也

【写真は共同】

 巨人、西武の投手として19年の現役生活を終え、2022年に引退した内海哲也。「自称・普通の投手」を支え続けたのは「球は遅いけど本格派」だという矜持だった。2003年の入団後、圧倒的努力で巨人のエースに上り詰め、金田正一、鈴木啓示、山本昌……レジェンド左腕に並ぶ連続最多勝の偉業を達成。

 6度のリーグ優勝、2度の日本一、09年のWBCでは世界一も経験するなど順調すぎるキャリアを重ねたが、まさかの人的補償で西武へ移籍。失意の中、ある先輩から掛けられた言葉が内海を奮い立たせていた。内海は何を想い、マウンドに挑み続けたのか。今初めて明かされる。内海哲也著『プライド 史上4人目、連続最多勝左腕のマウンド人生』から、一部抜粋して公開します。

“ノーコンピッチャー”だった小中学校時代

 のちにプロ野球選手としてプレーした姿を知る人は信じられないかもしれませんが、僕は野球を始めた小学生から高校1年の夏まで〝ノーコンピッチャー〞でした。

 最初にチームに入ったのは小学2年生のときで、久世フレンズという京都の地元の学童野球チームでした。決して強かったわけではないですが、楽しみながらプレーしていました。当時の僕は「左投げ右打ち」という珍しいタイプの選手でした。
 ピッチャーになったのは小学5、6年生の頃です。チームの監督から「左投げは有利だ」と言われて始めました。
 でもストライクがまったく入らなくて、試合でまともに投げられた記憶がありません。結局中学生の頃まで引きずることになるのですが、あまりにもストライクが入らなくて試合にならず、周りがザワザワするような空気感に耐えられなかったことを覚えています。当時は体が大きくて、もともと守っていたファーストのほうが安心してプレーすることができたくらいです。
 
 小学校を卒業後、中学生になって京都田辺ボーイズに入りました。母親の知り合いに紹介してもらったことがきっかけです。
 これは入団後に知ることになるのですが、京都田辺ボーイズは何度も日本一になった経験がある強豪チームです。当時の高校野球で名を馳せていたPL学園に、毎年1、2人を送り出していました。
 チームの1学年下で、まさにそのルートを歩んだのが今江敏晃(現楽天打撃コーチ)です。今江たちの代には力のある後輩が多く、僕らが中3の夏には彼らがレギュラーの大部分を占めていました。
 そんなチームで僕は3番手から6番手くらいのピッチャーでした。でも、決して自分が望んで投げていたわけではありません。
「サウスポーだし、お前の投げ方は柔らかいから、絶対ピッチャーがいいよ」
 保護者の方々にそう勧められました。「柔らかい」というのはあくまで周りから言われたことで、僕自身がそう感じていたわけではありません。

 基本的に中学時代も〝ノーコンピッチャー〞としてすごした中、楽しく投げられた時期もあります。先輩たちが卒業し、新チームになった3年春。その頃はストライクも入り、ほんの少しだけ主戦として投げていました。
 武器になったのが、1学年上で同じサウスポーの先輩から教えてもらったカーブです。「こうやって投げてみたら?」と言われ、試してみたらすぐに投げることができました。いわゆる「ドロップ」のような、大きな曲がりのカーブです。その先輩が教えてくれたカーブは、僕の腕の振りにすごく合ったのだと思います。プロでも投げていたカーブとほぼ同じ軌道です。新たな変化球を覚え、初めはすごく重宝されました。
 でも、中3春に訪れた好調は長続きしませんでした。再び〝ノーコン生活〞に入り、どうしても抜け出すことができません。当時の僕は身長がさらに高くなり、体のバランスが合わなくなっていたのだと思います。これは後から知る言葉ですが、「クラムジー」と言われる現象で、成長期に身体の発育が急激すぎて感覚が合わなくなることがあるそうです。
 そんな中学時代だったので、野球をしていて「楽しい」と夢中になるより、「しんどい」と感じる時期のほうが長かったです。

憧れの敦賀気比へ

 京都田辺ボーイズは強豪で、多くの高校とパイプがありました。そのおかげで控え投手だった僕も、静岡県の私学への進学が内定しました。
 その高校はJリーガーを数多く輩出しているところで、野球よりサッカーが有名でした。

 中学生だった僕は、プロ野球選手になる前に甲子園に出ることを夢見ていました。憧れていたのが、福井県の私立敦賀気比高校です。
 敦賀気比は創部9年目の1994年夏に甲子園初出場を果たすと、翌年にはエースの内藤剛志さんを擁してベスト4に勝ち上がりました。1997年にはベスト8に進み、エースの三上真司さんがドラフト1位でヤクルトスワローズに指名されています。グレーの縦縞で、胸に「敦賀気比」と漢字で書かれたユニフォームは今でも一番カッコいいと思っています。
 京都田辺ボーイズと敦賀気比はもともとパイプがありました。僕が中学生だった頃には途絶えていましたが、それでも毎年1人は希望して入学していました。京都から敦賀まではJR特急「サンダーバード」で約1時間と距離的にも近いです。
 当時、母親が京都府内にあるスーパーマーケットの青果担当として働いていて、夏の甲子園が終わった頃、敦賀気比に進んだ先輩がアルバイトに来ていました。だからすごく身近に感じられて、自分も絶対に行きたいと憧れていました。

 その頃の福井県は地方大会に参加しているのが29校で、シード校になれば、4回勝つと甲子園に行くことができます。それなら3年間のうち1度は甲子園の土を踏めるなという目論見もありました。
 加えて、寮生活に憧れていて親元を離れてみたかったのです。
 僕の中学時代は、極端に言えば〝黒歴史〞です。ボーイズでは平日も毎日練習があり、学校が終わったらすぐに帰宅して、夜の6時から10時半まで野球に打ち込んでいました。土曜日は学校の授業を受けた後、帰ってすぐに練習に行く。そんな中学3年間をすごしたので、同級生たちが放課後に楽しそうに話しながら部活に行ったり、給食がない土曜のお昼に部活の仲間とお弁当や菓子パンを食べたりする姿が羨ましかった。彼らの楽しそうな様子を横目で見ながら、高校に進学したら、今度こそ部活の仲間たちと一緒にすごしたいと考えていました。
 そうした思いが重なり、「敦賀気比に行きたい」という気持ちがどんどん膨らんでいきましたが、気づいた頃にはセレクションが終わっていました。でも、敦賀気比に進学した1、2学年上の先輩の親と、うちの親が仲良くしていたこともあり、特別に見てもらえることになりました。

 サンダーバードに乗って敦賀市までひとりでセレクションを受けにいくと、野球部の渡辺孝一監督から「京都田辺ボーイズは強いので、そのチームの選手は欲しい」と言われました。それで僕を獲っていただけることが決まったのです。
 一応ピッチングも少しだけしましたが、そんなに見られていなかったと思います。のちに渡辺監督は新聞の取材に対し、「1球投げたのを見てビビッときた」とコメントしたそうですが、僕にも直接そう言ってほしかったです(笑)。
 さまざまな縁に結ばれて敦賀気比に獲っていただけることになり、静岡県の高校とつないでくださった京都田辺ボーイズの監督に謝りに行きました。すごく怒られたけれど、一緒についてきてくれた母親が土下座までしてくれて、僕の決断を受け入れてもらえることになりました。

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