あの天皇杯優勝から8年。横浜F・マリノスが生まれ変わった国立でその進化の跡を示す
2014年の元日にはサンフレッチェ広島との決勝を2-0で制し、21年ぶりの天皇杯優勝を果たした。国立競技場は横浜F・マリノスがその輝かしい歴史を刻んできた場所だ 【Photo by Etsuo Hara/Getty Images】
※リンク先は外部サイトの場合があります
国立競技場で輝くトリコロール
横浜F・マリノスは前身の日産自動車サッカー部時代も含め、「国立」で天皇杯を7度制覇。1993年5月15日には、ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)とのJリーグ開幕戦も「国立」で戦った。
当時3歳だった水沼宏太は、父である水沼貴史のプレーを見るため、国立競技場のスタンドにいた。「あまり覚えていないというのが正直なところ」というが、歴史的な一夜を彩った音や光に圧倒されたことは記憶に残っている。
「F・マリノスは日産自動車時代から国立で何度もタイトルを獲っていますし、父が試合に出てゴールを決めたシーンもビデオで見ました。実際に現場で見た試合は少ないですけど、F・マリノスが歴史を刻んできた場所であり、昔から国立競技場でトリコロールのユニフォームが輝いている印象は強くあります」
改修前の旧国立競技場で横浜FMが最後に勝利を飾ったのは、14年1月1日の天皇杯決勝だった。横浜FMがサンフレッチェ広島を2-0で下し、21年ぶりの天皇杯優勝を果たしたそのピッチ上には、栗原勇蔵がいた。
ジュニアユース時代からトリコロール一筋。横浜FMのトップチームで18年間プレーし、現役引退後の20年からクラブシップ・キャプテンとしてクラブの発展に尽力する栗原は、旧国立競技場で天皇杯を獲得した日のことを、こう振り返る。
「F・マリノスのチームとしては、リーグ優勝を逃したことのショックが大きかった。そんな中、リベンジという意味で挑んだ天皇杯決勝だったので、優勝したときはもちろんめちゃくちゃうれしかったけど、どこか喜びきれないところがあったかな」
栗原にとって国立競技場は「小さい頃からの夢」だった。「F・マリノスの選手になって、ここで試合をしたい」という夢をかなえて、クラブでも日本代表でも数えきれないほど国立競技場のピッチに立ってきたが、その中でも14年1月1日の天皇杯決勝は記憶に強く刻まれた1試合だった。
ポステコグルー監督の下で得た成功体験
18年から約3年半指揮を執り、変革をもたらしたアンジェ・ポステコグルー監督。19年のリーグ優勝で「クラブとしてひと回りもふた回りも大きくなった」と栗原勇蔵氏は言う 【Photo by Hiroki Watanabe/Getty Images】
だが、再び歴史に名を刻むチャンスが訪れようとしている。今年7月2日に行われるJ1リーグ第19節で、横浜FMは清水エスパルスと対戦する。その会場は、新装なった国立競技場だ。
8年の間に横浜FMは大きく変化した。天皇杯優勝を最後に19年のJ1リーグ優勝までタイトルから遠ざかったが、今では毎年のように優勝争いをするクラブになった。いったい、何が変わったのだろうか。
選手とクラブシップ・キャプテンという2つの立場で成長を見届けてきた栗原は、次のように語る。
「13年にリーグ優勝を逃してから一番の大きな出来事は、(14年に)シティ・フットボール・グループ(マンチェスター・シティを筆頭に多数のクラブを保有する世界的なサッカー事業グループ)の一員になったこと。そこでクラブ自体がガラッと変わったと感じていました。最初はどうしても新しいことに対する不満が出たりもしましたけど、アンジェ・ポステコグルー監督(現セルティック)が来て、アタッキング・フットボールに取り組み、その特徴にマッチした選手が集まって、だんだん成果が見えてきたところで、19年にリーグ優勝ができたのかなと思います。
そこで成功体験ができたことで、クラブとしてひと回りもふた回りも大きくなったと思うし、目指している方向性は間違っていないんだと確認できた。そして、他のクラブの選手にもF・マリノスのサッカーが魅力的に映って、『F・マリノスに来たい』と考える選手がすごく増えた。それってすごく素晴らしいことだと思うんですよね」