小嶺忠敏氏と選ぶ国見歴代ベストイレブン アジアの大砲にJリーグ通算最多得点者も
素材をどう生かすか。チーム作りは料理と一緒
現在は国見を離れ、長崎総科で指揮を執る小嶺氏 【栗原正夫】
国見の練習は日本一厳しい――。いつからかそんな評判だけが広まったが、小嶺氏の言葉に耳を傾けると厳しさだけでなくアイデアに富んだ監督だったこともわかる。
「選手権で最初に勝ったあと、グラウンドにナイターが付きましたが、それまで冬場は私の車のヘッドライトの明かりを頼りに練習していました。暗くなる前にボールを使った練習をやって、暗くなったら見えなくてもできる練習をやる。指導者はできないと言う前に工夫が必要なんです」
守備を固め、攻撃はカウンターを中心にロングボールを多用してきた。守備は組織、攻撃は選手個々のアイデアを大事にし、常に対戦相手を見て、適材適所で選手を起用することでチームの最大限の力を引き出してきた。
「87年度に初優勝したときは、日本で初めてロングスローを戦術として使いました。長く投げられる選手がいれば、スローインがコーナーキックとほぼ一緒になりますし、利用しない手はないと考えたからです。高校年代で3-5-2のシステムを取り入れたのも、最初だったはず。当時2トップのチームが主流になってきて、相手のFWが2枚ならばDFを1人余らせても3枚で問題ないからです。それでウイングバックにはいちばん体力のある選手を置き、どんどん縦に勝負させました」
大久保や三浦のように技術に優れた選手がいた一方で、小嶺氏は高さを武器にする高木や船越、平山、スピードを売りにする松橋のような一芸に秀でた選手を重宝してきた。
「万能の選手はそういないですから。理想を掲げるのもいいですが、チーム作りは料理と一緒で、ある素材をどう生かすかが大事。そのために、指導者は私生活を含め、選手の長所や短所などの特徴を把握する必要がある。だから、私は毎日グラウンドに立って、いまでも寮で選手と寝食をともにしながら、誰と誰を組ませたらいいコンビになるかとか、この選手をどう起用するのがいちばんいいのかと考え続けているのです」
小嶺氏の下で、国見は選手権で他の強豪を圧倒する結果を出してきた。とくに2000年度からの5年間では3度の優勝ほか、準優勝とベスト4が1度ずつと絶頂期を迎えた。一方で、92年度までに3度の優勝はあったが、94年度からの6年間はベスト8が1回だけで、2回戦、3回戦を突破できない年が続き、一部メディアで「蹴って、走るだけの旧式のサッカー」と批判されたこともあった。
「こんなサッカーで勝てるわけがないと、メディアに叩かれ、我慢の時期もありました。もちろん、華麗なパスサッカーができるような選手が揃(そろ)っていればそうしますが、実践できるメンバーがいなければ“絵に描いた餅”。実際に自チームより優れたチームがあれば守ってカウンターや奇策で対抗するしかありません。当事者としては『言うは易く行うは難し』と思いながら、どんなときも自分の考えをブラさずにやってきました」
年には勝てないも、何歳になっても毎日が勉強
76歳となったが、「チャレンジャー精神を忘れたら終わり」と小嶺氏は現場に立ち続ける 【栗原正夫】
「年を取っても毎日が勉強です。基本は抑えつつも、新しいことを取り入れなければ進歩はないですから」
小嶺氏が国見を去ったあと、長崎県代表のチームは選手権で勝てない時期が続き、この10年はベスト8進出が1度だけと低調な成績が続いている。今夏のインターハイに出場した長崎総科も1回戦で青森山田(青森)に0-3とシュートを1本も打てずに敗れている。
「指導者がこう言ってはいけませんが、いまのレベルでは、あれが精いっぱい。年には勝てない部分もあります(苦笑)。ただ、やり方次第で全国制覇のチャンスはある。私には約50年の指導者としてのノウハウがありますし、できる限りのことはやりたいですね」
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プロフィール
1945年、長崎県生まれ。大商大を経て、68年に島原商のサッカー部監督に就任し、77年インターハイで長崎県勢として初優勝。84年に国見に転任すると86年度から06年度まで21年連続で冬の選手権に出場し、87年度の優勝を皮切りに戦後最多タイの6度の優勝を遂げた。06年3月に定年退職のため国見を離れ、11年から長崎総合科学大学附属高サッカー部で指導。現長崎総合科学大学教授、長崎県サッカー協会名誉会長