「北京戦士」が語る、五輪の記憶と重み 星野ジャパン同窓会・野手編(1)
2008年北京五輪のメンバーだった(写真左から)森野将彦、G.G.佐藤、宮本慎也の3氏。13年後にオンラインで再会し、本音トークを展開した。 【写真は共同】
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万全ではなかった中で迎えた北京開幕
メンバーも、それに相応しい面々が揃った。“闘将”星野仙一監督の下、投手コーチにアテネ大会からの継続となる大野豊、打撃コーチに盟友・田淵幸一、守備走塁コーチには山本浩二が入り、投手陣には川上憲伸、上原浩治、ダルビッシュ有、田中将大、野手陣には阿部慎之助、西岡剛、青木宣親、稲葉篤紀など、NPBで実績のあるベテランと新進気鋭の若手を融合したドリームチームを構成。07年12月に行われたアジア予選を3戦全勝で突破して北京行きを決めた。
だが、このチームの主将を務めた宮本氏は、五輪の直前合宿時のチーム状況を「結構、故障者とか、喉が痛いとか色々あった」と記憶する。アテネ五輪の時の「1球団2人まで」の制限が取っ払われた中でのメンバー選考で、星野監督は「最強メンバー」と自信を見せたが、故障明けの選手やそのシーズン前半戦で不調だった選手が多く招集されたことも事実で、さらに合宿に入ってからも喉の痛みを訴えた村田修一が緊急入院したほか、川崎宗則が左足甲を痛め、西岡は首痛を発症。チームのコンディションは万全ではなかった。
チーム編成、北京と東京の違い
星野仙一監督の下、最強メンバーが集まって臨んだ北京五輪だったが、結果は4位。主将を務めた宮本氏は「寄せ集めのチームだった」と振り返る 【写真:青木紘二/アフロスポーツ】
その言葉を受けた宮本氏は、星野ジャパンを「寄せ集めのチームだった」と認めながら、今回の稲葉ジャパンのメンバーを見て「稲葉監督の下でチームを作ってきているから、今年の調子の良し悪しじゃなくて、プレミア12のメンバーが中心。俺らの時とはちょっと違う」と分析する。森野氏も「国際大会を経験している人が選ばれている」と評価。当時のチームを「キャプテンとしては難しかった」と明かした宮本氏は、それと比較して「今のチームはずっと全日本に入っていた選手が中心だから、楽かなと思う」と笑顔で分析した。チームの一体感に、北京と東京の違いを垣間見ている。
また、宮本氏はチームの年齢編成にも言及。04年のアテネ五輪が「30歳前後が集まった」とした上で、「北京の時は20歳過ぎから俺(当時37歳)より上もいた。矢野(輝弘、当時39歳)さんがいた。そういうところのバランスも難しい」と振り返る。その上で今回の東京五輪のメンバーを見ると、最年長が田中(楽天)、大野雄大(中日)、坂本勇人(巨人)、柳田悠岐(ソフトバンク)の「88年組」世代が4人。最年少として、投手では平良海馬(西武)、野手では村上宗隆(ヤクルト)の21歳が2人選ばれているが、20代後半が9人。指摘通り、チーム全体に世代間のギャップはほぼ感じない。