「わずか50グラム」がドラマを呼んだ レスリング男子57キロの代表争いが決着

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接戦の末に元世界王者・高橋が悲願の五輪初出場

し烈な戦いとなったプレーオフは、元世界王者の高橋(青)が制した 【提供=日本レスリング協会】

 長きにわたって繰り広げられた壮絶な代表争いが、ようやく終わった。

 2017年世界選手権王者の高橋侑希(山梨学院大職員)と、リオ五輪銀メダリストの樋口黎(ミキハウス)。五輪開幕の42日前まで出場者が決まらなかったレスリング男子フリースタイル57キロ級において、両者のどちらかが代表切符を勝ち取るプレーオフが12日に東京・味の素ナショナルトレーニングセンターで開催された。

 観客に加え、報道陣も完全にシャットアウトされた中で運命の1戦はスタート。レスリング協会が実施したライブ配信では、2人が組み合う音と審判のジャッジだけが静かに響いた。並々ならぬ緊張感をうかがわせるかのように、慎重な立ち上がりを見せる両者。頭をつけながら互いの懐を探り合う展開が続き、樋口が消極性を指摘されて1点を高橋に献上し、そのまま第1ピリオドは終了した。

 迎えた第2ピリオドは、樋口が得意のタックルを中心に攻勢を強める。残り1分45秒ほどで高橋の左ひざを捉え、1点は奪われたものの背後に回って2点を奪取。この時点では2-2の同点ながら、ビッグポイントの多さで樋口がリードを奪っていた。しかし高橋は「2点は取られたけど、『相手の余力はこれくらいなのか』と感じた。負ける気はなく、気持ちに余裕がありました」と、ここからが冷静だった。残り1分に入ろうかというところで、相手のタックルを上手く利用して樋口の体を返し、決定的な2点を獲得。樋口の仕掛ける必死の猛攻をしのぎ切り、4-2で悲願の五輪初出場をもぎ取った。

 静かに安堵(ど)と喜びを噛み締める高橋の真横で、樋口は顔面をおおってその場に崩れ落ちた。わずか6分の間に繰り広げられた濃密な組み合いの末に、勝者と敗者は残酷なまでにくっきりと分かれた。

代表権をほぼ手中にしていたのは樋口だったが…

五輪の舞台が目前に見えていた樋口だが、わずか50グラムの狂いから代表の座を逃す形となった 【提供=日本レスリング協会】

「たった50グラム」のミスが、この激闘を生む引き金となっていた。

 2年前の19年9月、メダルを獲得すれば即内定が得られた世界選手権(カザフスタン)で、高橋はまさかの4回戦敗退。12月の全日本選手権では樋口が高橋を破って優勝を飾り、アジア五輪予選の出場権を獲得した。新型コロナウイルス蔓延の影響で今年4月に持ち越しとなった同大会で、樋口が2位以内に入れば五輪切符を手にするはずだった。ところが当日の減量に失敗し、50グラムのオーバーで失格。減量の難しさから一時は65キロ級に挑戦するなど、ウェイトコントロールが最大の敵だった樋口は「57キロが僕の(体力を保つ)極限のラインで、僕のふがいなさでオーバーしてしまった」と振り返り、うなだれた。

 そこで転がり込んできたチャンスを、高橋はがっちりと捕まえた。樋口に代わって選出された5月の世界最終予選(ブルガリア)で、見事に優勝。日本に代表切符を持ち帰ったが、五輪選考のルールにのっとり、樋口とのプレーオフで最終決戦を行う形となったのだ。

 ブルガリアで最終予選を戦ったため、2週間の隔離を強いられた高橋は「張り詰めた緊張感の中で体重制限もあったので、ピリピリしているのは自分でも分かっていた」。それでも自分が持ち帰った代表権を、必ず自分のものにするという決意が揺らぐことはなかった。それはもちろん自分のためでもあるが、一方では今年4月からコーチを務める山梨学院大の選手たちに、自らの姿勢で道筋を示す“親心”でもあった。

「『負けたくない』という気持ちは、今までで一番強かったです。きれいごとではありますが、1つ1つの努力を積み重ねれば結果を出せるということを伝えたかった。でも、もし僕が負けてしまえば、それは不正解だったということになってしまいます。『あきらめない』ことが結果につながるということを、自分が指導している選手たちに見せたいという思いで生活していました」

 一時は五輪出場がほぼ絶望的となるところまで追い込まれたが、高橋はこの日、最後の1秒まで集中力を切らすことなく戦い抜き、のどから手が出るほど欲しかった「結果」をついに手にした。その姿は、まさに自分が体現したかった指導の形と重なっていたに違いない。

家族の支えを力に、いざ五輪の舞台へ

前日に妻・早耶架さんからもらった白いハンカチ。熱いメッセージとともに高橋は戦っていた 【提供=日本レスリング協会】

 高橋の支えとなったのは、教え子たちだけではない。試合後のオンライン取材では、妻の早耶架(さやか)さんから力強いメッセージを受け取っていたことを明かしてくれた。

「この試合のためにハンカチを作ってくれたんです。僕と妻の両親や家族で協力して作ってくれて、前日にもらいました。『試合前に泣いちゃうじゃん! 感動させるなよ!』と言いました(笑)。これが背中を押してくれたと思います」

 ハンカチに書かれた早耶架さんからのメッセージは「侑希は強い! 今日はきっといい日になるよ」。シングレットの中に想いのこもったプレゼントを身に着け、その言葉通りに最高の一日にしてみせた。ただ、高橋は「これで終わりじゃないんですけどね。五輪での目標は金メダル。そこしか見ていないです」と、笑顔で宣言。その目標を達成した時には、間違いなく人生最良の日が訪れるだろう。

(取材・文:守田力/スポーツナビ)
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