連載:高校サッカー選手権 あのヒーローはいま

早熟の天才・山田隆裕が輝いた時代 “史上最強”清水商から稼げるJリーグへ

栗原正夫

1年生ながら選手権決勝で決勝ゴール

山田隆裕は名門・清水商で1年からレギュラーを務め、華々しく活躍。将来を嘱望される逸材だった 【写真:山田真市/アフロ】

 1989年1月、第67回高校サッカー選手権の決勝で静岡の名門・清水商の1年生FWとして決勝ゴールを挙げたのが山田隆裕だった。

 その後、89年夏にインターハイ、90年にはインターハイと全日本ユースの2冠を達成。同期にMF名波浩(元日本代表、ジュビロ磐田など)、DF大岩剛(元日本代表、鹿島アントラーズなど)、DF薩川了洋(柏レイソルなど)ら好タレントがそろい、当時の清水商こそ高校サッカー史上最強だったと称賛する声は多い。そんなチームにあって、将来を最も嘱望されていたのが、右サイドを主戦場としたエースの山田だった。
 スピードに乗ったドリブルと強烈なシュートが武器。卒業後は日産自動車から横浜マリノス(当時)へと進み、20歳で日本代表に名を連ねた。95年にはJリーグ制覇も経験。後年は京都パープルサンガ、ヴェルディ川崎、ベガルタ仙台と渡り歩いた。

「あの頃は、決勝男だったんです」

 山田は当時を懐かしむように、そう話し始めた。

「1年だった67回大会は、静岡県大会決勝の清水東戦も、僕が延長戦で決勝ゴールを決めているんです。それで、全国に行って市立船橋との決勝でまた僕が決勝ゴール。CKからのボールだったんですが、(頭の右側面を指さしながら)この辺に当たったシュートが入って。何か持っていたんでしょうね。ただ、運よく僕のゴールで1-0と勝てましたが、たぶん僕らが勝つと思っていた人は誰もいなかったんじゃないですか」

 当時の清水商は3年生に主将の三浦文丈(横浜Mなど)、2年生に司令塔の藤田俊哉(元日本代表、磐田など)らを擁していたが、選手権に入ってから調子は急降下。初戦(2回戦)の神戸弘陵戦こそ3-0と快勝したものの、3回戦は仙台育英を相手に1-0の辛勝で、準々決勝の盛岡商戦も0-0からPK戦勝ちという危うさだった。

 準々決勝が行われたのは89年1月6日、本来なら翌7日に準決勝(前橋商戦)が行われる予定だった。だが、7日に昭和天皇が崩御されたことで急きょ大会は2日間延期されることに。その2日間がなければ優勝はなかっただろう、と山田は振り返る。

「俗に言う、静岡県代表としてのプレッシャーだったのかどうかは分かりません。けど、とにかくそれまでは内容が悪くて……。たしか準決勝の延期が決まったのは試合開始30分前くらいだったと思うのですが、そこから清水に戻って2日間、猛練習したんです。それがなければ、絶対に負けていた。試合を思い返しても、あのときの市船はデカくて速くて、ずっと攻められっ放しでしたから。たしか市船のシュートがポストやバーに2、3本は当たっていたはず。昭和天皇が亡くなられたのにこんなことを言うとアレですが、運にも救われました」

 準決勝で前橋商に2-1と競り勝った清水商は、決勝でも市立船橋を1-0と下した。ただ、喜びよりも大きかったのは、サッカー王国・静岡の面目を保ったという安堵感だった。

レギュラー11人中10人がのちにJリーガー

山田が3年時の清水商は豪華なタレントを擁し、“史上最強”とも評された。しかし、選手権ではまさかの3回戦敗退 【写真:山田真市/アフロ】

 80年代の静岡県代表といえば、清水商(優勝2回、ベスト4が1回)のほか、清水東(優勝1回、準優勝2回)、東海大一(優勝1回、準優勝1回)、藤枝東(ベスト4が1回)が4強とされ、いずれも県予選を勝ち抜けば、全国(選手権)でも準決勝進出が当たり前という時代。県予選は選手権をしのぐレベルで、他県のように何年も連続出場を続けることは不可能にさえ思え、目標は全国で勝つよりも静岡県予選を勝ち抜くことだった。

「僕らにとっての聖地は国立競技場じゃなく県大会の決勝が行われる草薙(なぎ)競技場でした(現在、静岡県の決勝はエコパ・スタジアムで開催)。清商に入ったときから、そこで活躍するのが大きなモチベーションで、それこそが憧れ。静岡で勝つのが第一の目標で、正直、選手権はオマケみたいなものだったんです。

 1年のときは県の決勝の相手が清水東で、中学の1年先輩だった相馬さん(直樹、元日本代表、鹿島など)とマッチアップ。子どもの頃から知っている選手と右ウイングと左サイドバックで対峙するのは不思議な縁を感じました。ただ、1年のときは勝ったものの、2年のときは準決勝で清水東にPK負け。そのときは、相馬さんが主将で、ホントに悔しかったというか腹が立ちましたね(苦笑)」

 68回大会は県予選準決勝で敗退。3年で迎えた69回大会は、県予選とチームの主力が出場したアジアユースの日程が重なったことで予選が免除されたが、3回戦で大宮東に1-1からPK戦の末に敗れ、山田にとっての高校サッカーは終わった。

 山田、名波、大岩、薩川らひとつ下の世代にも、望月重良(元日本代表、名古屋グランパスなど)や西ヶ谷隆之(名古屋など)、さらにふたつ下にも興津大三(清水エスパルスなど)や平野孝(元日本代表、名古屋など)らレギュラー11人中10人がのちにJリーグ入りをするなどのスーパーチームは、その年ほぼ無敵を誇っていた。しかし、選手権では延長なしの即PK戦というルールもあって、ひとつの黒星に泣いた。

「草薙で試合をしたかったのに、そこを省かれたのは残念でしかなかったですね。あの年はインターハイも全日本ユースも優勝して、公式戦ではそれまで一度も負けていなかった。ただ、試合も詰まっていて、僕を含めてケガを抱えていた選手が多く、11人の中に五体満足な選手は2、3人しかいなかったと思います。力のあるチームだったのは間違いないんですが、やっていて最後は勝てる気がしなったですね。選手権では2回戦の市立船橋戦もPK戦で、PK戦になれば相手は僕らを研究していて、誰がどっちに蹴るかを分かっているような感じでした。だから80分で勝てなかった時点で、僕らの負け。史上最強とかそういうことを言われましたが、結局、勝てなかったんだから最強ではないんですけどね」

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著者プロフィール

1974年生まれ。大学卒業後、映像、ITメディアでスポーツにかかわり、フリーランスに。サッカーほか、国内外問わずスポーツ関連のインタビューやレポート記事を週刊誌、スポーツ誌、WEBなどに寄稿。サッカーW杯は98年から、欧州選手権は2000年から、夏季五輪は04年から、すべて現地観戦、取材。これまでに約60カ国を取材で訪問している

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