若き社長の型破りな発想力と行動力の源 Jリーグ新時代 令和の社長像 岩手編

宇都宮徹壱

宮野社長の第一手は「キヅール」開発

芝生席用サイドテーブルのデザインを見せる、事業部長の集治隆太郎。今年、大手スポーツメーカーから転職した 【宇都宮徹壱】

 キヅールの開発は、クラブの知名度を全国レベルまで高めただけでなく、宮野自身がサポーターから支持される契機にもなった。「17年のサポーターズミーティングで宮野さんは、今のクラブにはマスコットが必要で、クラウドファンドを用いれば可能だということを確信をもって語っていたんですね。それが本当に実現できたので、サポーターとの信頼関係は一気に強まりました」と語るのは、15年来の古参サポーター。「だからこそ、次の年に宮野さんが東京に戻ってしまったのは残念でした」とも。どういうことか。

 実は18年、宮野は常務取締役から「社長補佐」という役職に変わり、月2回のペースで東京から会議に出席する勤務体系に変わった。その理由について遠藤は「1年目はあちら(フィールドマネージメント)が給料を出してくれていたのですが、2年目からはそうはいかなくなったので」と説明する。会社としても苦渋の決断だったが、無い袖は振れない。当の宮野も「自分が離れてしまったことで、18年のグルージャは昔の状態に戻ってしまいましたね」と悔しさをにじませる。

 会長の遠藤としては、ぜひとも宮野に戻ってきてほしかった。その理由について「まず、故郷の岩手を何とかしたいという思い。それからサッカー界に明るく、フットワークが軽いこと。そして何より、アイデアを実現させる力。そういった要素を兼ね備えた人間でないと、この会社を率いることができない」と遠藤。そして18年の9月、意を決した会長は、宮野にいわてアスリートクラブの社長就任を打診する。この危険極まりないオファーを、当人はどう受け取ったのだろうか。

「最初はお断りしましたね。会長が『戻ってきてほしい』と思っていたのは感じていましたし、クラブの資金繰りについてJリーグに説明するのも、自分がいたほうが絶対にいいとは思っていました。けれども東京での仕事を辞めて、家族4人が生活できるのか。1カ月くらい、家族とクラブのことを考え続けていました。ただしこの2年、グルージャと関わりながら、いろいろな人たちを巻き込んでいます。それに自分が育った岩手で、子供たちが夢を見られない状態を何とかしたいという思いもありましたし」

 かくして宮野は退路を断ち、地元のJ3クラブの社長となることを決断する。一度決断したら、その後のアクションはいつもながらに迅速。「これは」と思う人材と東京で面談を重ね、自分の右腕となりそうな候補を探した。条件は「しっかり腰を据えて事業に取り組めること」と「ストレス耐性が高いこと」。そこで白羽の矢を立てたのが、事業部長の集治隆太郎。スポーツメーカーのアシックスで、グローバル・マーケティングを担当していた人材を引き抜くあたりに、クラブ社長に求められる人間力と豪腕ぶりを見る思いがする。

フロント再建の次なるミッションは……

「クラブの健全な発展」への祈りが込められたデザインとネーミング。キヅールは宮野社長のミッションそのものだ 【宇都宮徹壱】

「よく『思い切った決断をしたね』と言われますが、前職ではグローバルマーケティン業務という立場の関係上、どうしてもお客さんとの距離が遠い位置にいました。そこでもっとダイレクトにお客さんと接して、成果が見えやすい仕事をしたいと思っていました。もちろん、待遇面や地縁のない盛岡での生活に、不安がなかったわけではないです。それでも『今のクラブの状況であれば、ここからは上がっていくだけだ』と宮野さんから言われて(笑)、上がっていくだけの未来は面白そうだなと思って、決断しましたね」

 有名スポーツメーカーで海外とのやり取りがメーンの仕事から一転、地方のJ3クラブに転身した理由について笑顔で語る、平成生まれの事業部長。そんな集治から社長はどう見えるのか尋ねてみると「物事のイシューを見抜くのがうまくて、点と点を繋ぎ、スキームを作って落とし込む力に長けている」という明快な答えが返ってきた。当人もなかなかのアイデアマンで、コンコースに漫画や雑誌を自由に読めるスペースを設けたり、傾斜で飲食物を置きにくかった芝生席専用のサイドテーブルを貸し出すなどして好評を得ている。

 宮野と集治は、試合がない日でもいわスタを訪れては「どうすればお客さんが喜んで帰ってくれるのか」アイデア出しと議論を重ねている。いずれは昇格を見据えた新スタジアム建設を期待したいが、現実的な動きがない以上、今あるスタジアムを最大限に活用することを考えなければならない。先のSC相模原戦では、対戦相手の望月重良社長から「スタジアムの雰囲気がJリーグらしくなったね」と言われて、宮野は少しだけ報われた気分になったという。そうした小さな積み重ねが、クラブを少しずつ成長させてゆく。

 誰もなり手がいなくて、引き受けた社長業。後継者に託すタイミングについて、最後に宮野に問うてみた。返ってきたのは「この仕事をやっていて『楽しいな』と思った時が、社長を降りる時だと思っています」という意外な答え。そして、こう続ける。「お金にも人材にも余裕が出てきて、社長業が楽しくなってきたら、次の人に託すべきでしょうね。ハングリー精神で100%の仕事ができるうちは、やり続けるつもりです」と。

 当人も認めるように、宮野の本来の強みはITとデジタルマーケティングである。キヅールの成功は「今こそ移籍しないスーパースターが必要」という直感から生まれ、その試みは大成功を収めた。しかし一方で、スタジアムの問題や集客や地域の盛り上がりなど、解決すべき課題は山積したまま。今後はますます、泥臭い社長業に邁進していく必要がありそうだ。それでも宮野には、J3の常識にとらわれない発想力と行動力で、岩手というクラブを切り盛りしてほしい。現地での取材を終えた今、心からそう願う次第である。

<この稿、了。文中敬称略>

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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