連載:イチロー取材記 駆け抜けた19年

イチローがトラウマ、葛藤と戦った日々 ケン・グリフィーJr.に救われて

丹羽政善

チームで共有した「バンザーイ!」写真

10年連続200安打達成の際、イチローは控えめに喜びを表現。チームメートは…… 【Getty Images】

 9月、イチローはメジャー通算2000安打、9年連続200安打に迫っていた。メディアも増え、イチローの表情も硬くなっていったが、ある日の練習前、スウィーニーはダグアウト前で待ち構えるカメラマンにこう言った。

「今、イチロー選手が出てきますからね。ちょっと道を開けてください」

 自ら交通整理を買って出た。彼に続いてダウアウトの階段を上がってきたイチローも、思わず頬を緩めていた。また、ストレッチをしているとき、スウィーニーは客席にイチローのユニフォームを着ているファンを見つけると近寄っていった。

「それ、ちょっと貸してくれる?」

 サイズがまるで違った。ギリギリで袖が通ったが、ボタンが閉まらない。それでもお構いなしにイチローの近くでストレッチを再開すると、それに気づいたイチローが爆笑。記録達成前の神経質なときに、緊張が緩んだ。

 その頃すでに、イチローとチームメートの関係は改善されていたが、オークランドでメジャー通算2000安打を放った直後には、こんなことがあった。

 イチローがライトの守備につくと、一塁側のブルペンにいた投手が一列に整列し、一斉に、「バンザーイ! バンザーイ!」とやり始めたのである。イチローはなぜか、それを直立不動で眺めていた。

 その光景を友人のカメラマンがセンターから捉え、それを当時クローザーだったデビッド・アーズマに見せると、「それをメールで送ってくれないか」。それからしばらくすると、その写真が監督室に飾られていた。選手全員のサインが添えられて。

「これ、どうしたの?」

 ワカマツ監督に聞くと、「選手みんなが持っている」という返事。あの写真が、アーズマを経由して、チームメートに共有されたのである。

 1年が終わって、イチローがこう言ったのも納得だった。

「気持ちのいい連中でした」

記録達成の喜びは控えめに……

 もっとも、あの1年ですべてが払拭(ふっしょく)されたわけではなかった。

 翌2010年6月2日、グリフィーがユニフォームを脱ぐ決断をした。8月にはスウィーニーもフィリーズへ去っている。そんな中、9月になってイチローは日米通算3500安打をホームで記録したが、そのことが電光掲示板などで紹介されることはなかった。それを拒否したのはイチロー自身だった。

「2年前のことを勉強してますから。まあ、いろいろあったじゃないですか。そういうリスクを僕としては、今回、また負うわけにはいかないのでね。そうやって勉強するのが人間ですから、しょうがないよね。(ファンのためには)本当はそうしたくないけど」
 
 イチローは寂しげだった。

 9月23日、イチローは遠征先のトロントで10年連続200安打を記録したが、このときも控えめ。トロントのファンのスタンディングオベーションにヘルメットを取って応えたが、ためらいがうかがえた。

「2年前のことがトラウマになっちゃって、あれ以降、僕の中では何を喜んでいいのか、というのがちょっと分からなくなった」

 続けてこう口にしている。

「2年前は目標にすることすら否定されて、今年は目標とはしていないのに、なんか変な感じですよね。これから具体的な目標も出せなくなるし、なんか、いろんなものが塞がれてるイメージ。何を表現して、しない方がいいのかっていうのが分からなくなってきているかな。そいうものを提供したいと思うけど、そうすることもできない」

 まだ、葛藤があったのだ。しかし、その回が終わって守備につくと、ライトのブルペンにいたリリーフ投手らが、再び万歳三唱で記録を称えている。

 このときばかりは頬を緩め、イチローは左手で応じた。

「チームメートがみんな祝福してくれて、何か喜んでいいんだなと思いましたね。喜んでもいいんだなっていうことは、それでちょっとホッとしましたね」

 イチローを覆っていた霧が、今度こそ晴れていった。

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著者プロフィール

1967年、愛知県生まれ。立教大学経済学部卒業。出版社に勤務の後、95年秋に渡米。インディアナ州立大学スポーツマネージメント学部卒業。シアトルに居を構え、MLB、NBAなど現地のスポーツを精力的に取材し、コラムや記事の配信を行う。3月24日、日本経済新聞出版社より、「イチロー・フィールド」(野球を超えた人生哲学)を上梓する。

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