内弁慶だったFC東京・高萩洋次郎 恩師の言葉が成長を加速させた

後藤勝

小学生で中学の練習に参加したいと懇願

故郷・福島のJヴィレッジで出会った恩師との思い出を高萩洋次郎は語ってくれた 【佐野美樹】

 FC東京でプレーする高萩洋次郎は、中学を卒業すると同時に、生まれ故郷である福島を離れ、広島へとやってきた。

 紫紺のユニホームが美しいサンフレッチェ広島の育成組織で育ち、トップに昇格すると、日本一になり、日本代表入りも果たすと、羽ばたいていった。オーストラリアや韓国といった海外のクラブへ移籍する際にも、常に相談をする相手が、高萩にはいた。長年、彼の成長に携わってきた高田豊治さんである。ふたりの間にある太い“キズナ”を手繰ると、四半世紀ほど前のJヴィレッジにさかのぼる。
「実家が青果市場だったので、広くなっているところでボールを蹴っていました。壁蹴りも? やりましたね。ただ単にボールを蹴っていたというだけですが」

 特訓や練習という意識はない。それでも、好きにボールを蹴っているだけで、幼かった高萩の技術は磨かれた。

 福島県いわき市植田町の生まれ。地元のサッカー少年団に属してはいたが、小学5年生の大会が終わると、高萩は物足りなさを感じた。もっとサッカーがしたい。そう両親に訴えると、どこからかJヴィレッジサッカースクールの存在を見つけてきた。かなり専門的な指導を受けられそうなスクールで、彼はそこに行きたいと願った。

 ただ、Jヴィレッジのある広野町は遠かった。植田は同じ太平洋側の町だったが、小名浜の辺りで、かなり南にある。植田から広野には車で1時間ほど北上する必要があった。スクールは週に1回とはいえ、小学校の授業を終えてから広野に行こうとすると、小学生クラスの開始時刻には間に合わない。

 高萩は意を決して、中学生のコースに通わせてくれと申し入れた。

 だが、いくらボール扱いに秀でているとはいえ、小学5年生が中学生に混ざってそのメニューをこなせるという保証はない。スクールの指導者立会いのもと、練習の場で“試験”を受けることになった。

 しかし、当時、Jヴィレッジサッカースクールの責任者を務めていた高田さんは、この現場にはいなかった。高田さんはこう述懐する。

「私は日本サッカー協会の理事もしていたので、東京に出張していたんですね。彼が最初に練習参加したときは直接見ることができなかったんです。『どうだった?』と(高萩を見た指導者に)質問したら『いやー、中学生と一緒は無理だと思います』という話だったんですけれど、自分の眼で観ないで判断すべきではない、と。もう一度練習参加してもらい、観たら技術がしっかりしていましたから、『ああ、もうこれは一緒にできる』と思いました」

 上手な子どもであった高萩を一人前に脱皮させていったのは、Jヴィレッジでの約4年間だった。もしこのとき高田さんが直接確かめようとしなければ、プロサッカー選手としての高萩は存在し得ない。ここが最初の、運命の分岐点だった。

練習中にしゃべらなかった内気な中学時代

FC東京でチームをけん引する高萩だが、学生時代はコミュニケーションが苦手だった 【佐野美樹】

 こうして高萩はJヴィレッジへと通い始めた。

「週1回、1時間かけて親に送り迎えをしてもらっていました。車で学校に迎えに来てもらって、そのまま車で行って。終わるのを待っていてくれて、練習が終わったらすぐ帰る、という感じでした。家に着くのは夜の9時過ぎくらいでした」

 植田中学校に進んだ後も、同中のサッカー部に所属しながら、顧問の先生に許可を得てJヴィレッジサッカースクールに通った。公式の大会には植田中で出場し、Jヴィレッジでスクールの練習に参加する、そんな日々が続いた。

 少年だった高萩が見上げる高田さんは、あいさつを含め基本の佇まいから、優しく教えるプロの指導者に映った。練習メニューは現在FC東京で行っているものから、公式戦を目的とした部分を除いたような内容だったという。

「試合はしないので、戦術みたいなものはない。クリニック的なサッカースクールという感じです。狭いエリアのポゼッションとか。ゲームもありましたけれど、それも狭いエリアで」

 技術的には通用した。問題点は、プレー以外のところにあった。高萩は苦笑いしつつ、こう振り返った。

「僕が一番言われ続けたのは、コミュニケーション。Jヴィレッジに近いエリアの人が入ってくるので、彼らは同じ中学校に通う者同士。何人か知り合いがいる状態で来ているんです。でも、僕の場合は、いわき市から車で1時間かけて来ているので、知っている選手がいない状況で、ぽつんと練習をしていたんです。その状況だと……練習中にしゃべらないですよね。だから、例えば『パスをもらうときに名前を呼ぼう』『コミュニケーションを取らないとダメだよ』と、ずっと言われ続けていました」

 もちろん、他の子は、高萩に対して「洋次郎」と呼びかけてくる。それでも高萩は反応できず、閉じこもりがちだった。

「今のような性格ではなかったので(笑)。本当に借りてきた猫のような状態で、ひとりサッカーをやっているような状態でした。(植田中で)自分たちの部活でやっている分には、友達同士なので話ができましたけれど、スクールだけではなく、選抜とかトレセンでも黙ってサッカーをしていた。高田さんには『それじゃ、うまくもならないし、良くならないよ』ということを言われました」

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著者プロフィール

サッカーを中心に取材執筆を継続するフリーライター。FC東京を対象とするWebマガジン「青赤20倍!トーキョーたっぷり蹴球マガジン」 (http://www.targma.jp/wasshoi/)を随時更新。「サッカー入門ちゃんねる」(https://m.youtube.com/channel/UCU_vvltc9pqyllPDXtITL6w)を開設 。著書に小説『エンダーズ・デッドリードライヴ 東京蹴球旅団2029』(カンゼン刊 http://www.kanzen.jp/book/b181705.html)がある。【Twitter】@TokyoWasshoi

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